・サフランの時
私たちの地上の人生はある意味で「荒野と砂漠」です。罪の汚れに心痛め、死の恐怖におびえ、また悲しみます。
しかし神は、私たちのために「サフランのように花を咲かせる」時を用意しておられます。それは「終わりの日」の主イエスの再臨の時です。それは突然訪れ、「荒野」の世界を喜びと生命に変えるときです。
・贖われた者たち
「大路」とは、神が特別に設けられた道です。そこを通れる者は「贖われた者たち」だけです。それは主イエス・キリストの十字架の血を信仰によって受け入れた人々のことです。その他の者は、如何に地上で業績を上げたとしても、善行を為したと言われていても、性格が良いと思っていても、通ることはできません。
・帰還の時
「主に贖われた者たちは帰ってくる」とあります。私たちもそこに帰り、すでに召天した人々も「帰ってくる」のです。それは主イエスと共に到来する神の国であり、完全な形で現れます。そこで私たちはキリストの御顔を仰ぎ見ると同時に、先に召天した人々と出会うことになります。
召天記念礼拝では、過去の兄姉の面影を追憶するだけではなく、むしろ未来の帰還と再会を待望するときです。私たちは信仰を強くして、その時を待望しましょう。
2011/9/18 敬老の招待礼拝 イザヤ46:3~4 白髪になっても
・年をとること
「白髪は光栄の冠」とあるように、高齢者は神に祝福されています。しかし体力的には色々な試練が伴っています。筋肉や骨が弱る、熱中症にかかりやすくなる、さらに老いたときの生活が不安である等です。
・「あなた」の神を知る
そこで聖書で、神御自身が語りかけておられ、その不安からの逃れる道を示しておられます。
「わたしに聞け」と神は語られまう。「わたし」とは、「あなた」のことを誰よりも知り、あなたの近くで心配してくださる神です。
・「あなた」を担う神
「胎内にいるときから担われており・・・」とあります。赤ちゃんの場合、母親が胎児を担い、生まれてからはお乳から排泄にいたるまでの世話をします。しかし神は背後で、同じように愛を持って担ってくださる方です。目に見えることの背後には、いつも超越した神の業があるのです。
・白髪になっても
私たちに明瞭に老化の兆候が見えたとき、不安がよぎります。しかし、幼いときと同じように、神は担ってくださり、背負ってくださり、救ってくださるのです。
私たちとしては、その神の愛の約束を信じて老年を生きることが大切です。たしかに「白髪は光栄の冠」なのです。
「白髪は光栄の冠」とあるように、高齢者は神に祝福されています。しかし体力的には色々な試練が伴っています。筋肉や骨が弱る、熱中症にかかりやすくなる、さらに老いたときの生活が不安である等です。
・「あなた」の神を知る
そこで聖書で、神御自身が語りかけておられ、その不安からの逃れる道を示しておられます。
「わたしに聞け」と神は語られまう。「わたし」とは、「あなた」のことを誰よりも知り、あなたの近くで心配してくださる神です。
・「あなた」を担う神
「胎内にいるときから担われており・・・」とあります。赤ちゃんの場合、母親が胎児を担い、生まれてからはお乳から排泄にいたるまでの世話をします。しかし神は背後で、同じように愛を持って担ってくださる方です。目に見えることの背後には、いつも超越した神の業があるのです。
・白髪になっても
私たちに明瞭に老化の兆候が見えたとき、不安がよぎります。しかし、幼いときと同じように、神は担ってくださり、背負ってくださり、救ってくださるのです。
私たちとしては、その神の愛の約束を信じて老年を生きることが大切です。たしかに「白髪は光栄の冠」なのです。
2011/9/11 ローマ8:31~39 圧倒的勝利者
・世にある私たち
地上に生きる私たち信仰者には、色々な敵対者があります。私たち自身の肉体を等して働く罪と欲望、神に敵対する世の流れ、日本の偶像崇拝と慣習、世の君といわれるサタン/悪魔などなど。私たち信仰者は敵対するものに包囲されている状態です。
・神が味方です
しかし信仰の目を開くときに、別の世界が展開します。「神が私たちの味方である」と言うことです。神が「私たちの益となるため」「私たちの勝利のために」貢献してくれるということです。
「神が味方である」ことは過去に、御自身の一人子を与えてくださったことによって示されています。私たちは過去の啓示を通して、今/未来においても「神が味方です」と信じ告白していくべきです。
具体的には、神は私たちに対する「すべての訴え」を退けて義とされます。また「患難、苦しみ、迫害、飢え、危険など」においてキリストを復活させたのと同じ力を注いでくださいます。
・圧倒的勝利者
圧倒的勝利者とは、敵対者を終始圧倒して完全に勝利するものことです。神が私たちの味方であるから、私たちは圧倒的勝利者となるのです。
何事においても成功ストーリーを持つことが大切ですが、私たち信仰者こそ、それを提供されている者たちです。ただ心掛けるべきは、それを信仰によって心に刻むことです。
地上に生きる私たち信仰者には、色々な敵対者があります。私たち自身の肉体を等して働く罪と欲望、神に敵対する世の流れ、日本の偶像崇拝と慣習、世の君といわれるサタン/悪魔などなど。私たち信仰者は敵対するものに包囲されている状態です。
・神が味方です
しかし信仰の目を開くときに、別の世界が展開します。「神が私たちの味方である」と言うことです。神が「私たちの益となるため」「私たちの勝利のために」貢献してくれるということです。
「神が味方である」ことは過去に、御自身の一人子を与えてくださったことによって示されています。私たちは過去の啓示を通して、今/未来においても「神が味方です」と信じ告白していくべきです。
具体的には、神は私たちに対する「すべての訴え」を退けて義とされます。また「患難、苦しみ、迫害、飢え、危険など」においてキリストを復活させたのと同じ力を注いでくださいます。
・圧倒的勝利者
圧倒的勝利者とは、敵対者を終始圧倒して完全に勝利するものことです。神が私たちの味方であるから、私たちは圧倒的勝利者となるのです。
何事においても成功ストーリーを持つことが大切ですが、私たち信仰者こそ、それを提供されている者たちです。ただ心掛けるべきは、それを信仰によって心に刻むことです。
2011/09/04 ローマ8:28~30 神を愛する人々のため
・神を愛する人々
「神を愛する人々」とあります。
私たちは新しい御霊を受けています。その「アバ、父よ。」との祈りだけではなく、父である神を愛する愛を注いでくださいます。
御霊が愛を養う方法は、常にキリストを通して明らかにされた神の愛を御言葉をとおして示すことです。 「神が先に私たちを愛し」て下さることによって、私たちの内にも愛が養われたのです。そこで私たちの側としても「神を愛する」という意志を明瞭に持つべきです。
・すべて益に
私たちの内に相応しい心が確立するときに、神のご計画もクリアーに示されます。それは神が私たちのために「すべてのことを働かせて益として下さる」と言うことです。
実際に私たちのこれまでを振り返ると、一切のことは私たちのために益になっているのです。そして、たとい今、私たちが試練の中にあるとしても、将来の「益」を確信すること、また先取りして「知っている」という信仰を持つのです。それは練達した信仰者の姿です。
・キリストと同じ姿に
「益」とは、私たちの地上の人生においても与えられる恵みです。しかし最終的な「益」とは、御子キリストのかたちに似ること、その栄光の姿になることです。様々な試練は、私たちの生気と尊厳を失うのではなく、むしろ新しい生命を養い育てる契機となるのです。
「神を愛する人々」とあります。
私たちは新しい御霊を受けています。その「アバ、父よ。」との祈りだけではなく、父である神を愛する愛を注いでくださいます。
御霊が愛を養う方法は、常にキリストを通して明らかにされた神の愛を御言葉をとおして示すことです。 「神が先に私たちを愛し」て下さることによって、私たちの内にも愛が養われたのです。そこで私たちの側としても「神を愛する」という意志を明瞭に持つべきです。
・すべて益に
私たちの内に相応しい心が確立するときに、神のご計画もクリアーに示されます。それは神が私たちのために「すべてのことを働かせて益として下さる」と言うことです。
実際に私たちのこれまでを振り返ると、一切のことは私たちのために益になっているのです。そして、たとい今、私たちが試練の中にあるとしても、将来の「益」を確信すること、また先取りして「知っている」という信仰を持つのです。それは練達した信仰者の姿です。
・キリストと同じ姿に
「益」とは、私たちの地上の人生においても与えられる恵みです。しかし最終的な「益」とは、御子キリストのかたちに似ること、その栄光の姿になることです。様々な試練は、私たちの生気と尊厳を失うのではなく、むしろ新しい生命を養い育てる契機となるのです。
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