2011/7/24 ローマ8:1~11 いのちの御霊の原理

・キリスト・イエスにある者
 「キリスト・イエスにある者」とはイエスを信じる者のことです。彼らはノアの箱舟に入れられた者たちのようです。そこには聖いものも汚れたものもありましたが、キリストゆえに正しい者とみなされ、滅びを逃れました。
 私たちの場合もキリストを信じると言うだけで、目に見えないキリストと結びつけられており、義とされ、さらに義の実も生み出す者と定められています。

・いのちの御霊の原理
 「罪と死の原理」は自分の力に頼る肉を支配します。「いのちの御霊の原理」はキリストを信じて、神を頼る者に働きます。私たちには肉の要素が多分にあるのですが、神に頼るという小さな信仰だけで「罪と死の原理」を凌駕するいのちの「御霊の原理」が働きます。
 いのちの御霊は、いつでもキリストの御業を100パーセント私たちに実現します。御霊は、私たちの罪を絶えずキリストの肉と共に裁き、私たちのうちに復活の生命を注ぐのです。

・いのちの御霊に従う
 そこで、信仰生活において肝要なことは肉に従って歩むのではなく、御霊に従って歩むと言うことです。私たちにはパーフェクトにはできないことですが、私たちの小さな信仰にも御霊は働いてくださいます。
 ある牧師は信仰者の人生を「3歩後退4歩前進」という風に語りましたが、それは実際的な姿です。どうしても肉の自分が先に出て罪と死の力に苛まれることがあるのですが、その最中でもキリストを見上げるなら御霊の原理は遙かに凌駕する力で私たちを救いだします。

2011/7/17 ローマ7:7~25 聖書の人間描写

・聖書の人間描写
 画家が陰影法で素描するように、パウロは「むさぼってはならない」という律法の文字を光としてあてて、人間存在の陰影を描きます。
 「むさぼってはならない」は心のありようも律する戒めで、これによって律法全体が外面の行いだけではなく、心の思いさえ律するものであることが明らかになります。
 「むさぼってはならない」との戒めによって、心が照らされたときに、心にそれがなくなるどころか反対に、「あらゆるむさぼりが生じ」ます。隠れていた罪が二重三重の影を作ると言うことです。 

・罪の原理と絶望の叫び
 この人間描写はある特定の人の姿ではなく、すべての人、また信仰者でさえも共通する姿です。肉の部分には、信仰者であっても罪が宿るのです。
 「からだの中にある罪の律法(原理)」とは、肉的人間において絶対的な力をもつものです。原理法則とは、小さな力がいくら抗ってもかなわない力です。人間がいくら努力しても、それは変えようがないのです。罪の原理を知るときに、すべての人はただ自分に絶望するより他に術はありません。

・ただ神に感謝!
 自分に絶望することは、信仰者にとって大切なポイントです。罪の原理の発見、自分に対する絶望、この暗やみを通って、人は初めて新しい御霊の支配に心を向けるからです。
 私たちが自分自身に絶望することは信仰生活において必然です。その時に、素早く切り替えて「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と上を見上げましょう。

2011/7/10 ローマ7:1~6 古い文字と新しい御霊

・古い文字(律法)からの解放
 律法は文字として与えられ、人間の外から完全な業を要求し、冷たく命令し、裁くだけです。そこには生命も救いもありません。人は律法の下では、ただ自分に絶望するだけで、何の良い実も獲得できません。
 しかし、キリスト者はキリストとともに死んだ事により、古い律法と文字の束縛から解放されています。ちょうど律法の下で夫が死んだ場合と同様です。夫が死ねば妻は夫についての律法規定から解放されます。

・新しい御霊
 今、私たちは新しい御霊に仕える者とされています。「新しい」とは「古い」と対比されており、また天に由来すると言うことです。「古い文字」に対して全く新しい原理、新しい力、新しい生命に満ちていることを示します。
 また「新しい御霊」は神の第三格です。父の神、子の神の霊であり、両方の神から流れ出るもう一人の神です。そして父の愛、子の救いと恵みを100パーセント、私たちに注ぐのです。

・新しい御霊に仕える
 新しい御霊の中におかれてい私たちには、新しい生活スタイルが要請されます。新しいぶどう酒に新しい皮袋ということです。新しいぶどう酒とは御霊のことで、新しい皮袋とは待望と自由の姿勢です。そして父の愛、子の贖い、そして御霊の内住を信じることです。
 私たちは業や感情に左右されやすい存在ですが、それらに惑わされることなく、どのような時にも信じ続けることが大切です。その時に、御霊に仕える者として相応しい実を宿す人、御霊の業に満ちた人に変えられていきます。

2011/07/03 ローマ6:15~23 罪の報酬と神の賜物

・罪の奴隷と報酬
人間は機能的に創造されており、目的を持って何かに仕える存在、僕(奴隷)としての存在です。しかし、仕える対象を誤ったときに、それは悲惨です。
 「罪の奴隷」とは、自分を罪にささげて、罪のために仕える者のことです。生まれながらの人は、皆、罪の奴隷であって、罪に仕え、罪を犯さないでいることはできません。それはあからさまな悪を為すと言うだけではなく、自己中心に生きることも実は罪の奴隷のありさまです。
 「罪から来る報酬は死」とあるとおり、地上では幸いのようだとしても、神の裁きにあい、永遠の死と滅びという結果となります。

・神の奴隷と賜物
 それに対して、私たちが福音を心から受け入れるときに、神は私たちを180度の転換した状態におかれます。「義の奴隷」とは神に喜ばれることをしないではいられない人のことです。
 また私たちが「義の奴隷」として生涯を送る決意をするとき、「賜物として永遠のいのち」を与えてくださいます。私たちが不完全だとしても、神の恵みによって与えられるプレゼントです。それは「神の子としての生命」であり、永遠に神の愛に守られ、育まれ、実をならせるすぐれた生命です。

・死と生命の道を判別して進む
 私たちの目の前に2つの道が示されています。1つは死と滅びの道であり、もう一つは神の生命と祝福に至る道です。かつて歩んでいた死への道を放棄して、心より献身して、義の僕として生命の道に進んでいきましょう。