・患難さえも喜ぶ
地上に生きる者にとって患難や苦しみは耐え難く、気落ちすることです。しかし信仰者にとって患難さえも喜ぶ対象となります。それは患難が信仰者の生命にとって必ずしも破壊や否定となるのではなく、大きな益となり、生産的に働くからです。
それゆえ信仰者は、人生について前向きな姿勢をもち、使徒と共に「患難さえも喜んでいます」と告白するのです。
・忍耐、品性、希望
「忍耐」とはただ耐え忍ぶと言うことだけではなく「確固さ」と言う意味があります。患難によってのみ忍耐という徳は養われるのですが、それは新しい人格の確固とした基盤となります。生来の人格は肉的で自己中心であるためにその基盤は脆弱なのです。
「練られた品性」とは良く精錬され鍛えられた鉄、純粋な金や銀のような意味です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は純粋な形に練られるには試練が必要であり、基盤には忍耐力があるのです。
「希望」とは、新しい人、すぐれた人格の光です。アブラハムやすぐれた信仰者たちの人格には、この永遠の光がありました。どのような困難の中でも神を望んで輝く心です。
・聖霊による神の愛
これらの徳が人格の中で生み出されるのは、私たちの頑張りではなく、聖霊によって注がれる神の力、神の愛です。聖霊は信仰者たちの心に働いてさながら、神の御手の中にあるようにして、私たちを育むのです。
2011/2/13 ローマ5:1~2 大いに喜ぶ
・神との平和
「主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」とあります。平和とは神の怒りも断絶もなくなり、神との交流と祝福が回復した状態です。信仰という立脚点=岩に立つことで、私たちの全人にも心にも深い平和が訪れます。
いわば信仰は見た目は小さな人ですが、信仰には大きな兄弟たちが大勢います。まずは平和という大きな兄弟がやってくるということです。
・神を大いに喜ぶ
小さな信仰には、平和の次に恵み、希望という大きな兄弟たちも次々にやってきます。また「大きな喜び」も私たちの元に来ます。「大いに喜んで」とは、個人的に喜ぶと言うよりも神を賛美するという意味合いがあります。信仰者には沸き上がる賛美と喜びが生まれます。それは神が御自身の栄光と救いを全面的に信仰者に注がれるからです。
・信仰の岩に立つ
私たちは、目に見える肉と業の世界に生きています。その世界の本質は、滅びと罪と絶望です。目に見えることだけで自己判断することが賢いように思われますが、そうではありません。
信仰は目に見えない岩で、いわば「小さな人」です。しかしその元に、神の祝福のすべてがやって来るのです。私たち信仰者は、肉のしがらみから離れて、信仰の岩に立ち、神の光の中で自らの幸いを覚えるべきです。
「主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」とあります。平和とは神の怒りも断絶もなくなり、神との交流と祝福が回復した状態です。信仰という立脚点=岩に立つことで、私たちの全人にも心にも深い平和が訪れます。
いわば信仰は見た目は小さな人ですが、信仰には大きな兄弟たちが大勢います。まずは平和という大きな兄弟がやってくるということです。
・神を大いに喜ぶ
小さな信仰には、平和の次に恵み、希望という大きな兄弟たちも次々にやってきます。また「大きな喜び」も私たちの元に来ます。「大いに喜んで」とは、個人的に喜ぶと言うよりも神を賛美するという意味合いがあります。信仰者には沸き上がる賛美と喜びが生まれます。それは神が御自身の栄光と救いを全面的に信仰者に注がれるからです。
・信仰の岩に立つ
私たちは、目に見える肉と業の世界に生きています。その世界の本質は、滅びと罪と絶望です。目に見えることだけで自己判断することが賢いように思われますが、そうではありません。
信仰は目に見えない岩で、いわば「小さな人」です。しかしその元に、神の祝福のすべてがやって来るのです。私たち信仰者は、肉のしがらみから離れて、信仰の岩に立ち、神の光の中で自らの幸いを覚えるべきです。
2011/2/6 ローマ4:17~25 望みを抱く信仰
・聖書の神観
アブラハムは自分の神を「天と地とを造られた方、いと高き神」と証ししていました。全知全能の唯一神ということです。その神観を基本として「(彼の神は)死者を生かし、無いものをあるもののようにお呼びになる方」という信仰も示されました。それは死者を復活させる神ということです。
・アブラハムの「望みを抱く信仰」
アブラハムが抱いた神観は、神御自身からの啓示によりました。彼はその神観を知っているだけではなく、生涯における色々な試練を通して、自分自身の生きた信仰としました。「望み得ないときに望みを抱いて信じ」とあります。自分の考えでは絶望的と思われる状況の中で、神をのみ信じて希望を抱いたということです。その背後には復活信仰があり、具体的試練の中で復活信仰は生きた信仰となったのです。
・私たちの「望みを抱く信仰」
私たちもまた、アブラハムと同じ復活信仰が示されています。彼よりも明瞭にイエス・キリストの復活を示されています。この神観は、私たちの生涯の歩みの中で、より具体的で生きた信仰とされるのです。
私たちの試練の中で絶望してしまいそうなときがあります。その時、私たちが復活信仰に立つことです。つまり、イエスを復活させた神は、私をも試練からも脱出させてくださるのだと信じて、希望を持つことです。
アブラハムは自分の神を「天と地とを造られた方、いと高き神」と証ししていました。全知全能の唯一神ということです。その神観を基本として「(彼の神は)死者を生かし、無いものをあるもののようにお呼びになる方」という信仰も示されました。それは死者を復活させる神ということです。
・アブラハムの「望みを抱く信仰」
アブラハムが抱いた神観は、神御自身からの啓示によりました。彼はその神観を知っているだけではなく、生涯における色々な試練を通して、自分自身の生きた信仰としました。「望み得ないときに望みを抱いて信じ」とあります。自分の考えでは絶望的と思われる状況の中で、神をのみ信じて希望を抱いたということです。その背後には復活信仰があり、具体的試練の中で復活信仰は生きた信仰となったのです。
・私たちの「望みを抱く信仰」
私たちもまた、アブラハムと同じ復活信仰が示されています。彼よりも明瞭にイエス・キリストの復活を示されています。この神観は、私たちの生涯の歩みの中で、より具体的で生きた信仰とされるのです。
私たちの試練の中で絶望してしまいそうなときがあります。その時、私たちが復活信仰に立つことです。つまり、イエスを復活させた神は、私をも試練からも脱出させてくださるのだと信じて、希望を持つことです。
2011/1/30 ローマ4:9~16 世界の相続人
・肉の印ではなく
割礼は元々、神の民としての2次的印に過ぎませんでした。アブラハムは信仰によって義とされて神の民となり祝福を受けたのです。その象徴として割礼という肉の印を受けたのです。
創世記を見ても、先にアブラハムは「信仰が義とみなされた」とあり、その後に「証印として」割礼を受けています。義とされることの本質は信仰によるのです。
・信仰の足跡に従う者たち
「アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って」とあります。つまりアブラハムが何の肉の印を持たず、ただ信仰によって歩みましたが、それと同じように肉の印なしで、ただ信仰によって歩む者たちが神の民であるということです。
私たち人間は肉の印に捕らわれがちですが、ユダヤ人の誤りから学び、私たち自身が外見の印でもって神の民と思う誘惑から免れ、ただ信仰によってアブラハムの子孫、神の民として祝福を受け継ぐものであることを覚える必要があります。
同時にアブラハムの子孫は一民族に限られることなく、すべての民族、時代から集められることになります。
・世界の相続人
アブラハムの祝福とは、第1に神の子とされることです。私たちが祈るときに神の子の霊をいただいているので、「アバ。父よ。」と祈ります。第2には永遠に神の愛の元におかれます。第3に「世界の相続人」とされるのです。
割礼は元々、神の民としての2次的印に過ぎませんでした。アブラハムは信仰によって義とされて神の民となり祝福を受けたのです。その象徴として割礼という肉の印を受けたのです。
創世記を見ても、先にアブラハムは「信仰が義とみなされた」とあり、その後に「証印として」割礼を受けています。義とされることの本質は信仰によるのです。
・信仰の足跡に従う者たち
「アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って」とあります。つまりアブラハムが何の肉の印を持たず、ただ信仰によって歩みましたが、それと同じように肉の印なしで、ただ信仰によって歩む者たちが神の民であるということです。
私たち人間は肉の印に捕らわれがちですが、ユダヤ人の誤りから学び、私たち自身が外見の印でもって神の民と思う誘惑から免れ、ただ信仰によってアブラハムの子孫、神の民として祝福を受け継ぐものであることを覚える必要があります。
同時にアブラハムの子孫は一民族に限られることなく、すべての民族、時代から集められることになります。
・世界の相続人
アブラハムの祝福とは、第1に神の子とされることです。私たちが祈るときに神の子の霊をいただいているので、「アバ。父よ。」と祈ります。第2には永遠に神の愛の元におかれます。第3に「世界の相続人」とされるのです。
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