2010/4/25 マルコ12:13~17 神のものは神に

・試みと罠
 パリサイ人とヘロデ党の者たちは、税の問題でイエスをためして罠に落しいれようとしました。パリサイ人は異教徒の支配者に税を納めることを嫌い、ヘロデ党は賛成していました。イエスが税を納めることに賛成すれば、パリサイ人が不敬虔と言ってイエスを非難でき、反対すれば皇帝に対する反逆者といって訴えることができます。 

・カイザルのものはカイザルに
 イエスは銀貨をもってこさせてそこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。そして 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と。
 イエスは世の権力者に税金を納めること、その支配の中で生活することを認めているということです。ローマ13:1にも「存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」とあるとおりです。
 
・神のものは神に
 「神のものは神に返しなさい。」
 人間の心は神の形に似せてつくられ、それは神のものです。それは誰が何といおうと神に返さなければならないと言うことです。このように主イエスは、神の領域は、絶対に不可侵であることを宣言しているのです。

・私たちの日常と礼拝
 私たちはこの国と社会の中で生活しています。また家庭や職場があります。毎日の生活でそのしきたりに従うことは大切なことです。しかし週1回の礼拝は、一切の世の煩いを避けて、「神のものは神に返す」ために、イエス・キリストの神に礼拝するのです。

2010/4/11 マルコ12:1~12キリストを礎石とする

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは「ぶどう園のたとえ」を通して、「神の国」の祝福がユダヤ人から取り去られたこと。そして異邦人に与えられるようになったことを示します。
 神はユダヤ人たちに対して預言者たちを送り、さらにはひとり子キリストを送って誠実と恵みを示しました。ところがユダヤ人たちは殺して反逆心と邪悪さを顕わにしたのです。その結果、神の国は彼らから取り去られ異邦人に渡されたのです。

・見捨てた石が礎石に
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」
 主イエスは、別のたとえで捨てられたキリストが異邦人教会の「礎の石」となったことを示します。キリストはユダヤ人たちによって捨てられ殺されましたが、復活して新しい教会の礎石となったのです。神は初めから異邦人の救いを計画しており、それはユダヤ人の反逆により「奇跡的に」実現しました。
 今や、キリストは異邦人に、そして私たちの教会にも救いの礎として提供されています。すべて私たちに対する神の愛とみ力によっています。

・キリストを礎石とする
 私たちはキリストを礎石として教会生活、信仰生活を築き上げるべきです。そのためにはどのような時にも彼に信頼することが大切です。慌てて業をなすのではなく、静まって信じ続けることです。また「自分の思い」「人間的な欲」を中心とするのではなく、徹底して神の言葉と御心を求めることです。行いと思いにおいて聖さを保つことです。さらに礼拝を通して霊のいけにえをささげることです。(Ⅰペテロ2:4~6)

2010/4/4 イースター礼拝 ヨハネ20:24~29 見ずに信じる者は幸い


・疑り深いトマス
 主イエスが復活してから使徒たちに現れたとき、トマスだけはそこにいませんでした。「私たちは、主を見た」との使徒たちの言葉を信じることなく、彼は次のような暴言を吐きました。「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
 トマスは超自然の世界を受け入れず、ただ見る触るの世界だけにこだわるところがある人間でした。しかしそれは誤りであり、不信と反逆を増大させる態度です。

・トマスの悔い改めと信仰告白
 主イエスはそのトマスを愛し覚えておられました。彼の前に現れて、傷ついた手とわき腹をさらします。
 トマスは即座に、イエスの愛を知ると共に悔い改めました。もはや触って確かめるなどと言う不遜なことはしませんでした。
 「私の主。私の神。」との信仰告白は彼の悔い改めから生まれました。

・見ずに信じる者は幸い
 主イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と語ります。自分の感覚ではなく、聖書の言葉を通して信じることの大切さを示しております。復活も永遠の生命も神の国も、目に見えない世界です。感覚だけで知ろうとする時に限界があり、不信が生まれます。それはただ「見ずに信じる信仰」だけで知ることができる世界なのです。
 聖書は、神が私たちのために、復活の生命、神の愛、永遠の希望を与えようとしていることを知らせているのです。