09/12/20 マリヤの讃歌 ルカ1:46~55
・マリヤの讃歌
マリヤの讃歌は魂と霊の賛美です。人は表面的に喜ぶことがあっても、魂と霊という奥底から賛美、喜び讃えると言うことはありません。マリヤが霊から賛美するのは、マリヤが受けた恵みの本質は霊的だからです。霊的な賛美は深く、永続し、すべての時代に、すべての世界に響き渡ります。
・卑しいはしために目を留め
マリヤの賛美は、神が「卑しいはしために目を留めてくださった」という信仰から起こっています。
神は崇高者で人間から隔絶した方です。その方が、「卑しい」自分に目を留めて奇跡をなしてくださったのです。「目を留める」とは好意を持ち、選び、深い契約関係に入ることを意味します。この神との個人的な体験についての確信が彼女をして賛美に向かわせています。
・力ある方が大きなことを
神は無から有を創造した天地創造の神です。すべて良き業であり、恵みの業です。その一切の力を自分の内で働かされたのです。「大きなこと」とは神の子キリストを自分の胎に宿すと言うことでした。さらに彼を通して救いを万人に与えると言うことも含まれています。
・神のあわれみ
マリヤは自分の神体験を「あわれみ」という言葉で表現しています。値しない者が受ける好意であり、救いです。律法の下では神は厳しさと怒りの姿がありました。しかし神の子による救いは一切が「あわれみ」です。マリヤは「神のあわれみ」を受けたのです。かつてはアブラハムとその子孫にしめされ、やがて未来の人々に及んでいくのです。
マリヤの讃歌は魂と霊の賛美です。人は表面的に喜ぶことがあっても、魂と霊という奥底から賛美、喜び讃えると言うことはありません。マリヤが霊から賛美するのは、マリヤが受けた恵みの本質は霊的だからです。霊的な賛美は深く、永続し、すべての時代に、すべての世界に響き渡ります。
・卑しいはしために目を留め
マリヤの賛美は、神が「卑しいはしために目を留めてくださった」という信仰から起こっています。
神は崇高者で人間から隔絶した方です。その方が、「卑しい」自分に目を留めて奇跡をなしてくださったのです。「目を留める」とは好意を持ち、選び、深い契約関係に入ることを意味します。この神との個人的な体験についての確信が彼女をして賛美に向かわせています。
・力ある方が大きなことを
神は無から有を創造した天地創造の神です。すべて良き業であり、恵みの業です。その一切の力を自分の内で働かされたのです。「大きなこと」とは神の子キリストを自分の胎に宿すと言うことでした。さらに彼を通して救いを万人に与えると言うことも含まれています。
・神のあわれみ
マリヤは自分の神体験を「あわれみ」という言葉で表現しています。値しない者が受ける好意であり、救いです。律法の下では神は厳しさと怒りの姿がありました。しかし神の子による救いは一切が「あわれみ」です。マリヤは「神のあわれみ」を受けたのです。かつてはアブラハムとその子孫にしめされ、やがて未来の人々に及んでいくのです。
2009/12/13 インマヌエル マタイ1:18~25
・キリスト預言と処女降誕
罪からの救済者として旧約聖書の時代を通してキリスト到来が預言されていました。預言者イザヤはキリストのしるしは「処女降誕」であるとしました。処女降誕は、色々な意味で人間にとっては躓きになります。神が人となる躓き、処女が子供を産むという躓きなどです。
マタイはこの躓きを取り払うかのようにアブラハムからキリストまでの系図の中に女性たちを紹介します。いずれも躓きをはらみながら神が「良し」とした女性たちです。
・ヨセフは信じ受け入れた
許嫁のマリヤが聖霊によって身重になったときに、ヨセフは「内密にさらせようと決め」ていました。しかし「主の使いが夢に現れて」、マリヤは聖霊によって子どもを宿していると知らされます。御使いは彼を「ダビデの子ヨセフ」と呼んだときに、彼はアブラハム・ダビデに対する約束を思いおこしたと思います。彼の子孫としてキリストが生まれると言うことです。彼は御言葉を信じマリヤをも受け入れました。それでキリストを持つことができたのです。
・インマヌエル
キリストの別名は「インマヌエル」です。「神は私たちとともにおられる」という意味です。この方が私たちの神となるためには、いつの時代にも躓きが伴います。
しかしいつの時代も同じです。ただ彼がインマヌエルで、私たちとともにあり、私たち祝福する方であると信じ続ける時、やがてその祝福は確かに私たちとともにあると気づくのです。
09/12/06 マルコ9:43~50 躓きをさける
・躓きをさける
主イエスは「小さい者たちのひとりにでもつまずきを与え」ないようにさとします。小さい者とは子どもや弱者、あるいは社会的に見下されがちな人々のことです。その人々もまた、神によって覚えられており、かけがいのないのです。教会の中では、くれぐれも小さい魂さえ躓かせることがないように、注意を払う必要があります。
・躓きを取り除く
「もしあなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨て・・・。」
主イエスは強烈な言葉で、つまずきを除去するように畳みかけます。つまずきは相手の滅びとなるだけではなく、自分の滅びとなります。身体の場合でも手や足に重い疾患を持つ場合に、切断して生命全体を救う処置がなされます。ちょうどそのように罪とつまずきを与える習慣は他人と自分の致命傷となるのです。
・キリストの心
躓かないように配慮する心はキリストの心です。「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とあるように神であり、王である方が、小さな者たちのために細心を払われたのです。
私たちはキリストによって自由で権利を持つ者ですが、キリスト者の自由と権利は人に仕え、建て上げるためのもので、その心がけの中で多くを獲得することになるのです。つまり小さな者の生命が育まれ、自らもまた育まれるのです。
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