2022/5/29 ルカ福音書19:41~48 神の訪れの時

・イエスの嘆き
 オリーブ山からエルサレム全景を見渡すことができますが、そのエルサレムに近づいたときに、主イエスは「その都のために泣いて」とあります。シクシクと言うのではなく、大声を上げて泣いたのです。旧約でも預言者たちは、しばしばエルサレムのために嘆げいていますが、主イエスの反応も全く同じでした。それはまた、神ご自身の激しい嘆きの姿です。

・神の訪れの時を知らず
 イエスの嘆きの理由は、人々が「神の訪れの時を知らなかった」ということです。つまり神の子キリストが平和の主として到来したのに、彼らはそれとは認めずに、神に反逆したままで、神の子を拒絶したからです。その結果、エルサレムは外敵によって徹底して破壊され、民も滅ぼされることになるのです。

・祈りの家/強盗の巣
 実際に主イエスがエルサレム神殿に入ったときに、そこが「商売の場となっている有様を目撃しました。宮聖めの後に、そこは「祈りの家」であるべきなのに「強盗の巣」にしていると指導者たちを責めます。
 現代も主イエスは、み言葉とともに私たちのもとに訪れます。そのときに私たちは神の平和と恵みをそのまま受け入れる「祈りの家」でなければなりません。決して人間的な思いと罪の欲望に満ちた「強盗の巣」にしてはならないのです。
 

2022/5/22 ルカ福音書19:28~40 ろばの子の召命

 ・エルサレムへ
 「イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って」とあります。エリコからエルサレムまでは約25キロ1000mの高低差を上っていくことになります。オリーブ山中腹は、その峠となり、眼下にエルルサレムが眺望できます。主イエスは、エルサレムを前にして、公式に、神のキリストとして入城の準備をします。

・ろばの子の召命
 主イエスは細やかに2人の弟子に命じて、村でろばの子を見つけてくるように語ります。もし「なぜ、ほどくのか」と尋ねる人があったら「主がお入用なのです」と言うようにと…。弟子たちが行くと案の定、ろばの子の所有者たちが「なぜ」と詰問するのですが、弟子たちは「主がお入用なのです」と告げると引き渡してくれました。主イエスは、すべてに優先する「主」だからです。

・ろばの子に乗って
 「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちはみな…喜んで大声に神を賛美し」とあります。弟子たちが、神を賛美したのはイエス・キリストの入城であり、到来でありましたが、名馬ではなく、柔和なろばの子に乗ってやってきたキリストを喜んだのです。
 現代でも、キリストは霊によって人々に届けられますが、その際にも非力であっても、柔和な器を用いられるのです。ただその器に求められることは、召命感です。

2022/5/15 ルカ福音書19:11~27 一ミナの重み

 ・一ミナずつの下僕たち
 主イエスは、主人と一ミナずつ与えられた下僕たちのたとえを話します。そしてご自分が再臨する時までの期間、弟子たちが与えられた賜物を用いてご自身のために奉仕し、忠実に仕える大切さを示します。一ミナとは、当時の貨幣単位で、一デナリの100倍、1タラントの60分の1の価値です。大きくはないのですが、決して小さくはない賜物です。

・最臨時のしもべたち
 主人が「王位を受けて帰って来たとき」に、下僕たちはそれぞれ、自分の働きと忠実さについて審判をうけています。はじめの下僕は1ミナで10ミナを儲けたと報告しました。王となった主人は「よくやった。良いしもべだ」「小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者に…」と祝福と報いを与えます。次の下僕は1ミナで5ミナ儲けたと報告し、同じように祝福と報いを受けます。
 しかし、もうひとりは、1ミナを預かったのにそれを用いないで「ふろしきに包んでしまって」いたと報告します。その結果、彼は王によって厳しい裁きを受けています。

・一ミナの重み
  現代の私たちも、キリストからそれぞれ一ミナずつの賜物を与えられています。それは大きくはないのですが、決して小さくはない価値を持っています。そして、それを用いて忠実に仕えることで、この地上でキリストとの接点を保ち、また再臨の時まで、そのように仕えることが期待されているのです。

2022/5/8 母の日礼拝 創世記21:14~21 母ハガルの場合

 ・母ハガルの場合
 聖書では、母の子離れのテーマが多くあります。ハガルの場合もその一例です。奴隷であったハガルはサラの逆鱗に触れ、息子イシュマエルとともに荒野に追放されることになりました。アブラハムは「非常に悩みましたが、神の啓示と祝福を信じて、二人にパンと水の革袋を持たせて送り出しました。

・荒野をさまよい
 「彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた」とあるように、ハガルには行く宛もなく、厳しい荒野をさまよい歩くしか術がありませんでした。「水が尽きたとき」とは生命も尽き果てようとしていたときです。彼女は、自分の力では守ることはできないと考えて、子どもを放棄して、遠く離れてただ泣くだけの状態になりました。この世にある母と子の厳しい現実です。

・神がハガルの目を開かれ
 しかし母が手放した時、本来の保護者であり守り手である神が前面に出てきます。つまり「神は少年の声を聞かれ」とあるとおりです。この体験が、母ハガルの子育ての姿勢を180度転換させます。それは「神がハガルの目を開かれた」体験となりました。そして神中心に物事を考え、自分は子どもを神から委ねられた母という視点になったときに、現実の子育てでも「目が開かれて」展望が開かれたのです。そのようにして、彼女は井戸を見つけ、子を養い、立派な青年に育て上げました。

2022/5/1 ルカ19:1~10 ザアカイの改心

・ザアカイ
 主イエスがエリコに入った時の物語です。そこに取税人のかしらで金持ちのザアカイという人がいました。彼は職業柄、アウトローで罪人として人々に嫌われていましたが、主イエスに対して興味をいだいていました。しかし背が低かったので、人垣で見ることができません。そこで先回りして、いちじく桑の木に登って待ってイエスの通り過ぎるのを待っていました。

・いちじく桑の木の上で
 「イエスは、ちょうどそこに来られて…上を見上げて」とありますが、ザアカイに先んじていたのは主イエスの方でした。「木の上」はザアカイの孤独な傍観者としてのスタンスでしたが、主イエスの方が、彼に先んじて、彼を見、救いの対象として覚えていたのです。
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい」とは、主イエスの救いの招きに対する応答のあるべきスタイルを示しています。それに対して、ザアカイもまた、素直に「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」ています。

・ザアカイの改心
 さらにザアカイは、主イエスとの出会いを通して、徹底した改心と悔い改めにふさわしい行いを実行しています。「財産の半分を貧しい人たちに…だまし取った物は、四倍にして返し…」とあるとおりです。
 そのザアカイに対して主イエスは次のように宣言します。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」