2015/10/25 ヨハネ福音書16:12~15 真理の御霊



・真理の御霊
 御霊のことを「真理の…」と表現されています。「真理」とは、神としての性質を持っているということと共に、忠実、真実という意味があります。つまり私たちの「そばにいて語り(パラクレートス)」、誤ることなく、確実に「真理に導く」霊ということです。

・自分から語るのではなく
 御霊は、何か独自の計画を語ったり、ビジョンを示したりする方ではありません。「自分から語るのではなく、聞くままを話し…」とある通りです。昔から御霊は「父と子から発出する」と言われてきましたが、御霊は父と子の神のものを示す方です。また御霊は、父と子の神を啓示しますが、それ以上でもそれ以下でもありません。

・御霊はイエスの栄光を現す
 「御霊はわたしの栄光をあらわします」とあります。栄光とは神としての姿/性質と御業が顕わにされることを意味します。それは常に輝いており、また勝利したすがたです。
 そこで「わたしの栄光」とは、イエスの姿と御業のこと、またその勝利についてです。

・今も、御霊は…
 私たちは、肉のイエスから2000年が過ぎた時代に生きています。しかし、御霊はイエスのことを忠実に完全に私たちに示してくれます。私たちが聖書に向かうごと、祈るごと、礼拝し賛美するごとに、御霊はイエスとその栄光を鮮明に示します。

2015/10/18 ヨハネ福音書16:1~11 助け主と世 



・イエスが去ることは
 主イエスは「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益」と語っています。それは弟子としての成長のためにプラスとなる、弟子として世に証する際に幸いとなると言う意味です。
 これは逆説的です。目の前にイエスがいることは弟子たちの喜びでした。しかし、彼がいなくなったとき、さらに「益」となるというこです。

・「助け主」
「助け主をあなた方のところに遣わします」とあります。「助け主」とは、御霊のことです。御霊は心の内側にまで入り、心の闇に光を照らすことができる唯一者です。彼は私たちの「心の傍らに」いて「語る」方です。その働きは私たちを真に助け、慰め、励まし、内側から救いを実現します。

・「助け主」と世
 さらに御霊は「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」。
 世は完全な闇に閉ざされていて、そこに神の光が差し込む余地がないほどです。しかし、御霊は福音を通して世の人の心にも働いて心を照らします。そして罪を認めて悔い改め、イエスのみが救いの道であると知って改心させるのです。
 私たちはキリストの弟子として、この地域で証ししています。それは私たちの力では不可能なことで、ただ御霊の助けなくしては実現されないのです。

2015/10/11 ヨハネ福音書15:18~27 迫害と証



・世が憎むとき
 イエスの弟子は、自分たちは神の子とされているのだから、世の人々は好意を持って受け入れてくれるという錯覚を持ちがちです。しかし現実は、「世があなた方を憎む」とあります。憎むとは、嫌うこと、不快な感情を抱くこと、非難することなどを意味します。
 その時にイエスの弟子は怯むのではなく、むしろ主イエスの道であったと想起して、それでも弟子としての従順を貫くべきです。

・世が憎む理由
 世が「あなたがたを憎む」理由は「あなたがたがこの世のものではない」からです。つまり神の子たちであるから世は憎むということです。そのことから、世は「父(の神)をも憎んでいる」が明らかになります。このようにしてイエスの弟子たちを通して、世が完全に罪に染まっていることが顕わにされます。

・迫害と証
 さらに単に憎むだけではなくイエスの弟子たちを迫害します。それは単に口先で非難するだけではなく、身体的な危害を加えることです。事実、迫害は初代教会でも起こり、そして私たちのキリスト教史でも激しくなされました。
 しかしながら、その迫害の最中に主イエスはみ霊を送り、そのみ霊を通して弟子たちの心を励まします。また迫害者たちの中でも働き、イエスこそ真理という証を際立たせるのです。

2015/10/4 ヨハネ福音書15:16~17 「選びと派遣」



・選びと任命
 キリストは私たちが彼を選んだのではなく彼ご自身が私たちを選んで、弟子としたことを強調します。また「任命」とあるのは、キリストが私たちを弟子としての使命を託しいるということです。
 私たちが自分でキリストを選んで入信し、自分の力で信仰者としての人生を歩もうとすることは、ちょうど自分で小舟を操るようで、不安定になります。しかし、「キリストの選びと任命による」と覚えるときに大船の安定感を持ちます。

・派遣と献身
 「あなたがたが行って実を結び」とあります。私たちは自分勝手に人生を歩み不毛となるということではなく、キリストによって派遣されているということです。さらに、私たちに求められていることは、献身すると言うことです。そのようにして初めて、浮き雲のような人生ではなく、しっかりとした目的を持った信仰生活となり、そこに祝福の業が起こるのです。それは信仰生活の喜びとなります。

・実を結び
 私たちの祝福は「実を結ぶ」という形で約束されています。その実とは、私たちが派遣されたその所で、様々な人間関係を持ち、そのようにして御霊の実を獲得すること、そして、同じ救いに導かれる人々を獲得すると言うことです。その実こそ、地上のどのような富にまさって、有益で、永遠に残る実となります。