2015/3/22 ゼカリヤ3章 天使とサタンの狭間 



・天使とサタンの狭間に
 ゼカリヤは、天の法廷の幻を見ます。それは大祭司ヨシュアが天の使いの前に立ち、その右手にサタンが立っている幻でした。サタンは大祭司の罪を責め立てて、滅ぼそうとしているのです。しかし、主なる神はサタンを責めます。それは主なる神は「火から取り出された燃えさし」として、ヨシュアを赦して生かすことを望まれたからです。

・聖め
 さらに主なる神は大祭司ヨシュアの汚れた服を脱がせ、新しい礼服を着せ、聖いターバンをかぶらせました。そのようにして、大祭司と共に民すべてを聖めて、新しく再生させることを示したのです。しかしそれは1つのひな形でした。
 8~9節に「1つの若枝」「石」の象徴でキリストの到来を預言しています。彼によって、さらに徹底的な赦しと聖めは成就するのです。

・平安と喜び
 「その日にはあなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合う」とあります。未来に成立する神の民の交わりを描いています。それはキリスト教会において成就しています。その交わりは神の恵み(ヘセド)にならったものであり、互いについて責めるのではなく、むしろ赦し受け入れ、喜び交わるのです。

2015/3/15 ゼカリヤ2:1~5 火の城壁



・ひとりともうひとり
 幻の中で、一人の御使いが現れ「エルサレムを測りに行」こうとしています。彼は預言の言葉を文字通りに解釈してエルサレムを建設しようとしていました。それまた当時の人々の先入観を現していました。
 しかし「もうひとりの御使い」が先の御使いの浅はかな計画を正して、神の真の計画を告げます。

・火の城壁
 「多くの人と家畜のため、城壁のない町 」とあります。新しい神の都は神によって祝福されて、多くの人が住み、生活することになるので、限界となる城壁はなくなるということです。
 「わたしが、それを取り巻く火の城壁となる」「わたしがその中の栄光となる」とあります。神が直々に神の都に臨在し、交わりと救いのために臨在を現し、すべての敵から完璧に守ってくださると言うことです。

・聖霊の教会
 このゼカリヤの預言は、新約聖書の時代に実現しました。使徒の働き二章に天から火のように聖霊が降臨して教会が誕生したことが記されております。聖霊はキリストの霊であり、また神ご自身です。その教会はゼカリヤの預言のように地域を越えて異邦人世界にまで拡大し、人数が増えていきました。また神の臨在と栄光が明々白々と現れたのです。
 私たちの教会も、その神の火と栄光、神ご自身が宿る神の都です。その約束を信じて、教会建設をしていくことが大切です。

2015/3/8 ゼカリヤ書1:7~17 教会を愛する神 …ミルトスの庭で



・預言者ゼカリヤ
 ゼカリヤは、BC500年頃の預言者で、バビロンから帰還した旧約の民に対して、神殿建設の預言を与えました。彼の預言は、時代を超えて現代の教会に対しても、強烈な神の愛の預言となっています。

・ミルトスの庭で
 ゼカリヤは1つの幻を示されます。それは谷底にあるミルトスの庭でした。そこは神の地上における作戦基地で、御心がそこで啓示され、御使いによって実行されます。そこには赤い馬に乗った御使いと他の諸々の「赤や栗毛や白い馬」がいました。彼らは歴史の背後で、神の民のために働く御使いたちでした。また御使いは神に神殿再建の執り成しをしています。

・ねたむほど激しく愛し
 「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とは主の言葉です。「ねたむ愛」とは、出エジプト以来、民に対する神の愛についての表現です。ちょうど夫婦関係のように、愛の契約の相手に対する独占的で熱心な愛を意味します。
 当時の民は、無力感と深い絶望感の中にありましたが、この預言の言葉に呼応しました。王と祭司、その他大勢の信仰者たちが、志を持ち、神殿再建に立ち上がったのです。

・教会を愛する神
 ゼカリヤの預言は、現代の教会にも向けられた言葉です。私たちはゼカリヤと同じように、ミレトスの庭に導かれ、神のことばを心に響かせるべきです。

2015/3/1 詩篇131篇 依存と信頼



・依存ではなく
 詩篇131篇では試練を通して真の神信仰に到達した信仰者の告白が記されております。彼は苦難の中で、色々と苦しんでいました。それは目先の現象にとらわれ、自分の考えに固執したからでした。それは順境では心高ぶらせ、逆境では極度の落ち込みと絶望感にさいなまれるのです。アダム以来、自我に固執し、目に見えるものに依存する人間の有様です。彼はその誤りを認識し「心は誇らず、目は高ぶらず」と告白します。

・信頼…乳離れした子のように
 彼は良い信仰を「乳離れした子」の姿に見いだします。それは即物的に母親に依存するのではなく、少し離れていても泣きわめいたりすることがない母を信頼する姿です。つまり、目先の状況や現象を見たときに「神はいない」「神は見捨てた」ような苦難があったとしても、「常に神は共におる」、「決して見捨てない」という約束のみ言葉に基づいて信頼する信仰姿勢です。

・信仰の基本姿勢
 私たちは21世紀の人間理性信仰の時代に生きております。こうした中、信仰を持っていても、目先の出来事と現象を見、自分の頭だけで考えて、神の存在と愛を測っている場合が多々あります。そこから生じるのは誇り高ぶりと落ち込みの連鎖です。現代でも信仰者の基本姿勢は、み言葉に信頼して時が良くとも悪くとも神の臨在と愛とを信じ、救いを待ち望むことです。