・第八条・・・真の教会
「真の教会がイエス・キリストにある救いの信仰を通し、聖霊により新生し、そのかしらであるキリストの体に結合されているすべての人により構成されるものであることを信じる。」
真の教会とは、全世界全歴史に広がる一つのキリストの体であり、地の国と対峙する神の国のことです。その民は、神の一切の祝福を相続する者たちです。私たちは元来、地の国の者ですが、ただ「信仰を通し」、その民になります。
・第九条・・・地方教会会員
「真の教会の会員である者のみが地方教会会員資格をもつものであることを信じる。」
真の教会に属する者は、抽象的に存在するのではなく、具体的な目に見える地方教会を形成し、そこに属します。私たちの場合は真の教会に属する者として、具体的に桶川福音自由教会を形成し、そこに属しているのです。この地方教会も、また一つのキリストの体です。
具体的に地上におかれた教会には、多くの試練や苦難がありますが、その中で戦闘の教会として、キリストのために戦います。
・第十条・・・地方教会の自治
「イエス・キリストが教会の主であり、かしらであること、またすべての地方教会がキリストのもとに個々の業務を決定し、つかさどる権利をもつものであることを信じる。」
教会の主は、いかなる地上の権威でも、外部の権威でもありません。ただ目に見えないキリストです。会員一人一人が御言葉と祈りを通して示された御心と判断が、教会活動に反映されます。これが地方教会の自治であり、また自律(オートノミー)です。
ですから、私たちの教会では個々人がキリストにあって成長することが大切であり、また互いの自発性と献身が極めて大切であるということです。
2012/8/5 イザヤ5章 ぶどう畑の歌
・ぶどう畑の歌
預言者は、失恋歌のように「ぶどう畑の歌」を歌います。その主人公は神ご自身です。神は、最上の土地に、最高のぶどうの苗木を植え、労力と投資を惜しまず、至れり尽くせりで甘いぶどうがなるのを待ったが、「ところが、酸いぶどうできてしまった」というのです。「あり得ない」「想定外」な結果になったということです。
そこで神はそのぶどう畑を放置し、一切の恵みを断ち切ると宣言します。それは当然の報いで、誰も異議を唱えることはできません。
・イスラエルとユダの罪
ぶどう畑の歌は、神とイスラエル/ユダの関係を歌ったものです。神はモーセを通して彼らをエジプトからカナンの地に導き、律法に基づいた契約と恵みを与えて、祝福を与えました。ところが、彼らは神を恐れて、律法を守るどころか、悪と欲望に満ちた国に成り下がったのです。その結果は、裁きと旧約の廃止以外はありません。
・原罪と神の小羊
聖書は、彼らが堕落してしまった原因として、原罪ということを顕に示します。原罪は、私たちの奥底に隠れていて、律法によってでなければ明らかになりません。(ローマ7:7)人は、自らの内にある原罪の存在を知って、初めて律法を越えた、優れた救いを待望することになります。
そこで預言者は、律法よりも優れた救いとしてのキリスト預言を明瞭にしていきます。その旧約の預言を受けて、新約聖書のヨハネ福音書1:29に次のようにあります。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」
預言者は、失恋歌のように「ぶどう畑の歌」を歌います。その主人公は神ご自身です。神は、最上の土地に、最高のぶどうの苗木を植え、労力と投資を惜しまず、至れり尽くせりで甘いぶどうがなるのを待ったが、「ところが、酸いぶどうできてしまった」というのです。「あり得ない」「想定外」な結果になったということです。
そこで神はそのぶどう畑を放置し、一切の恵みを断ち切ると宣言します。それは当然の報いで、誰も異議を唱えることはできません。
・イスラエルとユダの罪
ぶどう畑の歌は、神とイスラエル/ユダの関係を歌ったものです。神はモーセを通して彼らをエジプトからカナンの地に導き、律法に基づいた契約と恵みを与えて、祝福を与えました。ところが、彼らは神を恐れて、律法を守るどころか、悪と欲望に満ちた国に成り下がったのです。その結果は、裁きと旧約の廃止以外はありません。
・原罪と神の小羊
聖書は、彼らが堕落してしまった原因として、原罪ということを顕に示します。原罪は、私たちの奥底に隠れていて、律法によってでなければ明らかになりません。(ローマ7:7)人は、自らの内にある原罪の存在を知って、初めて律法を越えた、優れた救いを待望することになります。
そこで預言者は、律法よりも優れた救いとしてのキリスト預言を明瞭にしていきます。その旧約の預言を受けて、新約聖書のヨハネ福音書1:29に次のようにあります。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」
2012/7/29 イザヤ4:2~6 シオンに残された者
・主の若枝
神はアブラハムを選び、さらにダビデを選び、その子孫を通して万民に救いを与える契約を与えてきました。「主の若枝」とはその子孫、すなわちキリストです。
・シオンに残された者
「シオンに残された者」とは、元来、外敵の侵入の中で、シオンに残された者を意味しました。しかし預言者が意味しているのは、世の誘惑、試練、偶像崇拝、つまずきのなかでも、信仰を守り通した人々のことです。神は、「若枝」によって「残された者」を聖とみなし、シオンの永遠の市民としてくださいます。
・シオンでの聖めと臨在
シオンとは神の特別な恵みが注がれる場を象徴しています。そこで神は、「裁きの霊と焼き尽くす霊」によって、「残された民」の罪と汚れをことごとく除き去ります。またすべての会合に臨在を示し、求める者たちを一切の危険と試練から守ってくださるのです。
・現代のシオン/教会
イザヤが預言するシオンとは現代の教会であり、「残された者」とはキリスト者のことです。エペソ1:22~23に神は教会にキリストを与えられたこと、またキリストによって一切を満たして下さると約束してくださっています。
毎日の生活の中で、私たちも世の誘惑、試練、偶像礼拝、つまずきに直面します。しかしその中で信仰を保つときに、「残された者」として神に覚えられるのです。 さらに信仰による教会の礼拝と会合に主キリストは霊を注いで聖めをなさり、また雲となり火の輝きとなって臨在を現されます。
神はアブラハムを選び、さらにダビデを選び、その子孫を通して万民に救いを与える契約を与えてきました。「主の若枝」とはその子孫、すなわちキリストです。
・シオンに残された者
「シオンに残された者」とは、元来、外敵の侵入の中で、シオンに残された者を意味しました。しかし預言者が意味しているのは、世の誘惑、試練、偶像崇拝、つまずきのなかでも、信仰を守り通した人々のことです。神は、「若枝」によって「残された者」を聖とみなし、シオンの永遠の市民としてくださいます。
・シオンでの聖めと臨在
シオンとは神の特別な恵みが注がれる場を象徴しています。そこで神は、「裁きの霊と焼き尽くす霊」によって、「残された民」の罪と汚れをことごとく除き去ります。またすべての会合に臨在を示し、求める者たちを一切の危険と試練から守ってくださるのです。
・現代のシオン/教会
イザヤが預言するシオンとは現代の教会であり、「残された者」とはキリスト者のことです。エペソ1:22~23に神は教会にキリストを与えられたこと、またキリストによって一切を満たして下さると約束してくださっています。
毎日の生活の中で、私たちも世の誘惑、試練、偶像礼拝、つまずきに直面します。しかしその中で信仰を保つときに、「残された者」として神に覚えられるのです。 さらに信仰による教会の礼拝と会合に主キリストは霊を注いで聖めをなさり、また雲となり火の輝きとなって臨在を現されます。
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