09/08/30 心(内側)の罪悪と解決 マルコ7:14~23
・外側からではなく
ユダヤ人たちは聖めと汚れについて誤った考えを持っていました。汚れは外側のものであるから外側の洗いを徹底し、汚れた食物を食べず、異教徒とは接触しないように心掛けていました。彼らの心は「頑(かたく)な」で律法の教えを表面的に捕らえ、しかも外面の聖めを守ることで神の民であるという特権意識に囚われていました。
主イエスは、彼らの心の覆いがとれて「悟る」ようになることを切望していました。また私たちについても、「外側」に囚われる者たちなので、その「頑なさ」から解放されて、悟るものとなることを願っておられます。
・心(内側)から出る罪悪
「人から出るもの、これが、人を汚す」「内側から出て、人を汚す」とあります。聖書は旧約以来一貫して、内側からの汚れと罪悪について問題にしてきました。主イエスもこの点を明瞭にしています。
「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ 」。主イエスは内側の罪を具体的に現します。人の心の奥底には「破れ」があって、そこから罪と悪魔の汚れが噴出して人を汚染し支配するのです。まさしく人は心の内に「地獄の門」を持っています。この支配を免れる者は誰もいません。
・心(内側)の罪悪の解決
内側の罪は自分の努力では解決できません。ただ御言葉と御霊の照明の下で罪を認め、神の前に告白し、そして主イエスの十字架の血潮できよめていただく以外に解決の道はありません。
主イエスの血は、今の時代でも、聖霊によって悔い改める者たちの心に注がれ、完全に汚れを焼き尽くし、聖めることができるのです。
09/08/23 「自分たちの」ではなく マルコ7:1~13
・先祖の言い伝え
ユダヤ社会には、モーセ律法とは別に「先祖の言い伝え」がありました。それは食べ物の規定から手洗いなどの聖めの規定まで生活の細部にまで及んでいました。パリサイ人と律法学者たちは、その専門家で、ユダヤ社会で権威を持っており、「先祖の言い伝え」に従わない者たちを罪人として断罪していました。
主イエスの弟子たちは「先祖の言い伝え」について十分に知識がなく、しばしばパリサイ人らによって非難されました。
・「自分たちの・・・」へのイエスの非難
しかしながら、主イエスはイザヤの預言を引用しながら、彼らを反対に非難します。「彼らは「先祖の言い伝え」を守ろうとするが、ただ「人間の教え」に過ぎず、心は神から遠く離れていると」。
さらに「自分たちの言い伝えを守るために・・・神の教えをないがしろにしている」と。実際に律法には「あなたの父と母を敬え」と命令されているのに、コルバンという規定を作って、神のことばを空文にしていました。それはほんの一例です。
・「自分たちの」の罠
私たちは集団を作るときに「自分たちの」と言うことを大切にします。それは大切なことです。しかし「自分たちの」という集団心理は、やがて絶対化され、「神の」ということさえも、無視し、さらには敵対するにまでになってしまう危険をはらんでいるのです。特に私たち日本人は、この集団性に弱さをもっています。
・「自分たちの」ではなく
私たちは「自分たちの教会」であるゆえに、熱心に活動をします。しかしそれ以前に「神の」教会であることを良く覚える必要があります。そのためには神の言葉を真摯で、純粋な心で読み、それを自分たちの教会形成の土台とするように、いつも心掛けることが大切です。
09/08/09 湖上の幽霊騒動 マルコ6:45~56
・湖上の
幽霊騒動 主イエスはガリラヤ湖上の弟子たちを訓練します。彼らは向かい風で漕ぎあぐねていました。同時に真夜中の暗さの中で恐れを持っていました。
イエスは湖上を歩いて彼らに近づき通り過ぎようとされました。それは彼らを試みるためです。案の定、彼らは「幽霊だと思い、叫び声を上げた」のです。当時の人々も幽霊の存在を信じて恐れていたのです。その恐怖心はちょっとした恐怖体験において浮上したのです。
・イエスは永遠遍在の霊
「・・・わたしだ。恐れることはない。」
主イエスの言葉は力強く彼らの心に響きました。彼らは幽霊に対する恐れではなく、神である方の存在の大きさを体験し「彼らの心中の驚きは非常なもの」でした。
「わたしだ」とはギリシャ語で「エゴ・エイミー」といいます。英語で「I am.」ということです。そこで「わたしはある」という風に解釈されます。永遠の存在、遍在、つまり霊である存在を意味するのです。神は旧新約を通じて御自身の本質をこの言葉で表現されます。
このようにしてイエスは湖上の幽霊騒動を通して、ご自分が永遠で遍在する霊なる神であることを示されたのです。
・様々な恐れを克服する
私たちには色々な恐怖心があります。人に対する恐怖心、天変地異に対する恐怖心、そして死霊悪霊に対する恐怖心があります。特にこの時期、死霊に対する恐怖心が私たちの社会を覆っています。それは信仰の落とし穴になります。
そこで私たちは、私たちを守ってくださるイエスが、それら一切の霊どもより優越し、力があり、近くにおられる霊なる神であることを明瞭に覚えましょう。「わたしだ」との御言葉を心に刻むときに、私たちが恐れるものは何一つありません。
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