2022/6/5 ルカ福音書20:9~18 捨てられた石、礎の石

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは旧約から新約にいたる救済史を「ぶどう園のたとえ」で語ります。ぶどう園主が農夫たちに契約によって貸付て、長い旅にでました。収穫期を迎えて主人はしもべを遣わしましたが、農夫たちは「袋だたきにし、何も持たせないで送り帰し」ました。その後、別のしもべ、三人目のしもべを遣わしても反逆心をエスカレートするだけでした。

・愛する息子の殺害と契約破綻
  最後に、主人は契約に対する誠実を尽くして「愛する息子」を派遣します。農夫たちは、その息子が跡取りだと分かると農園を略奪しようと殺してしまいます。主人はこの反逆と罪により、契約破綻とし、さらに罪に対する報いとして「農夫どもを打ち滅ぼし」、さらに「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」と。このたとえの「愛する息子」とは神の子キリストです。

・捨てられた石、礎の石
 主イエスは最後に旧約預言を示します。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」。旧約の民が捨てたキリストが、新約の救いの礎となったということです。
 これは単にユダヤの歴史について語ったことではありません。いつの時代にも、どこの地域でも、世の権力者たちはキリストを捨てます。それでも「神の目に選ばれた石」Ⅰペテロ2:4は、永遠の御国の民とされるのです。
 

2022/5/29 ルカ福音書19:41~48 神の訪れの時

・イエスの嘆き
 オリーブ山からエルサレム全景を見渡すことができますが、そのエルサレムに近づいたときに、主イエスは「その都のために泣いて」とあります。シクシクと言うのではなく、大声を上げて泣いたのです。旧約でも預言者たちは、しばしばエルサレムのために嘆げいていますが、主イエスの反応も全く同じでした。それはまた、神ご自身の激しい嘆きの姿です。

・神の訪れの時を知らず
 イエスの嘆きの理由は、人々が「神の訪れの時を知らなかった」ということです。つまり神の子キリストが平和の主として到来したのに、彼らはそれとは認めずに、神に反逆したままで、神の子を拒絶したからです。その結果、エルサレムは外敵によって徹底して破壊され、民も滅ぼされることになるのです。

・祈りの家/強盗の巣
 実際に主イエスがエルサレム神殿に入ったときに、そこが「商売の場となっている有様を目撃しました。宮聖めの後に、そこは「祈りの家」であるべきなのに「強盗の巣」にしていると指導者たちを責めます。
 現代も主イエスは、み言葉とともに私たちのもとに訪れます。そのときに私たちは神の平和と恵みをそのまま受け入れる「祈りの家」でなければなりません。決して人間的な思いと罪の欲望に満ちた「強盗の巣」にしてはならないのです。
 

2022/5/22 ルカ福音書19:28~40 ろばの子の召命

 ・エルサレムへ
 「イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って」とあります。エリコからエルサレムまでは約25キロ1000mの高低差を上っていくことになります。オリーブ山中腹は、その峠となり、眼下にエルルサレムが眺望できます。主イエスは、エルサレムを前にして、公式に、神のキリストとして入城の準備をします。

・ろばの子の召命
 主イエスは細やかに2人の弟子に命じて、村でろばの子を見つけてくるように語ります。もし「なぜ、ほどくのか」と尋ねる人があったら「主がお入用なのです」と言うようにと…。弟子たちが行くと案の定、ろばの子の所有者たちが「なぜ」と詰問するのですが、弟子たちは「主がお入用なのです」と告げると引き渡してくれました。主イエスは、すべてに優先する「主」だからです。

・ろばの子に乗って
 「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちはみな…喜んで大声に神を賛美し」とあります。弟子たちが、神を賛美したのはイエス・キリストの入城であり、到来でありましたが、名馬ではなく、柔和なろばの子に乗ってやってきたキリストを喜んだのです。
 現代でも、キリストは霊によって人々に届けられますが、その際にも非力であっても、柔和な器を用いられるのです。ただその器に求められることは、召命感です。

2022/5/15 ルカ福音書19:11~27 一ミナの重み

 ・一ミナずつの下僕たち
 主イエスは、主人と一ミナずつ与えられた下僕たちのたとえを話します。そしてご自分が再臨する時までの期間、弟子たちが与えられた賜物を用いてご自身のために奉仕し、忠実に仕える大切さを示します。一ミナとは、当時の貨幣単位で、一デナリの100倍、1タラントの60分の1の価値です。大きくはないのですが、決して小さくはない賜物です。

・最臨時のしもべたち
 主人が「王位を受けて帰って来たとき」に、下僕たちはそれぞれ、自分の働きと忠実さについて審判をうけています。はじめの下僕は1ミナで10ミナを儲けたと報告しました。王となった主人は「よくやった。良いしもべだ」「小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者に…」と祝福と報いを与えます。次の下僕は1ミナで5ミナ儲けたと報告し、同じように祝福と報いを受けます。
 しかし、もうひとりは、1ミナを預かったのにそれを用いないで「ふろしきに包んでしまって」いたと報告します。その結果、彼は王によって厳しい裁きを受けています。

・一ミナの重み
  現代の私たちも、キリストからそれぞれ一ミナずつの賜物を与えられています。それは大きくはないのですが、決して小さくはない価値を持っています。そして、それを用いて忠実に仕えることで、この地上でキリストとの接点を保ち、また再臨の時まで、そのように仕えることが期待されているのです。

2022/5/8 母の日礼拝 創世記21:14~21 母ハガルの場合

 ・母ハガルの場合
 聖書では、母の子離れのテーマが多くあります。ハガルの場合もその一例です。奴隷であったハガルはサラの逆鱗に触れ、息子イシュマエルとともに荒野に追放されることになりました。アブラハムは「非常に悩みましたが、神の啓示と祝福を信じて、二人にパンと水の革袋を持たせて送り出しました。

・荒野をさまよい
 「彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた」とあるように、ハガルには行く宛もなく、厳しい荒野をさまよい歩くしか術がありませんでした。「水が尽きたとき」とは生命も尽き果てようとしていたときです。彼女は、自分の力では守ることはできないと考えて、子どもを放棄して、遠く離れてただ泣くだけの状態になりました。この世にある母と子の厳しい現実です。

・神がハガルの目を開かれ
 しかし母が手放した時、本来の保護者であり守り手である神が前面に出てきます。つまり「神は少年の声を聞かれ」とあるとおりです。この体験が、母ハガルの子育ての姿勢を180度転換させます。それは「神がハガルの目を開かれた」体験となりました。そして神中心に物事を考え、自分は子どもを神から委ねられた母という視点になったときに、現実の子育てでも「目が開かれて」展望が開かれたのです。そのようにして、彼女は井戸を見つけ、子を養い、立派な青年に育て上げました。

2022/5/1 ルカ19:1~10 ザアカイの改心

・ザアカイ
 主イエスがエリコに入った時の物語です。そこに取税人のかしらで金持ちのザアカイという人がいました。彼は職業柄、アウトローで罪人として人々に嫌われていましたが、主イエスに対して興味をいだいていました。しかし背が低かったので、人垣で見ることができません。そこで先回りして、いちじく桑の木に登って待ってイエスの通り過ぎるのを待っていました。

・いちじく桑の木の上で
 「イエスは、ちょうどそこに来られて…上を見上げて」とありますが、ザアカイに先んじていたのは主イエスの方でした。「木の上」はザアカイの孤独な傍観者としてのスタンスでしたが、主イエスの方が、彼に先んじて、彼を見、救いの対象として覚えていたのです。
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい」とは、主イエスの救いの招きに対する応答のあるべきスタイルを示しています。それに対して、ザアカイもまた、素直に「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」ています。

・ザアカイの改心
 さらにザアカイは、主イエスとの出会いを通して、徹底した改心と悔い改めにふさわしい行いを実行しています。「財産の半分を貧しい人たちに…だまし取った物は、四倍にして返し…」とあるとおりです。
 そのザアカイに対して主イエスは次のように宣言します。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」
 

2022/4/24  ルカ福音書18:35~43  ある盲人の信仰

 ・ある盲人
 主イエスがエリコに近づいた時の出来事です。ある盲人が道ばたで物乞いをしていましたが、イエスが通りかかるという噂を耳にしました。彼は以前から、主イエスの業と説教について聞いていて、心の中に信仰が養われていました。
 そこで彼は大声で「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫びました。「ダビデの子」とは神の子キリストを意味します。その方が惨めな自分をもあわれんでくださるという信仰からの叫びでした。彼は先の役人とはことなり、「あわれみ」の意味をよく知っていました。

・「ますます…叫び」
 例によって、主イエスの周囲にいた弟子たちは、彼とその叫びを煩わしいものとしてたしなめましたが、その妨げにも関わらず、彼は「ますます…叫び立てた」とあります。「叫び立て」とは単に感情的ではなく、意志的信仰に基づく叫びで、彼の強い信仰の現れです。また妨げの中で、その信仰が強められたことの現れです。

・「あなたの信仰があなたを…」
 主イエスは彼を呼び寄せてから、改めて、彼のニーズを明確にしてから癒やしの言葉を語られます。さらに付け加えて「あなたの信仰があなたを直した」と語られます。癒やしの力と恵みは神によるのですが、それはいつの場合でも、心からの「あなたの信仰」がその管となり「あなたを直す」ことになるということです。「直した」とは、直訳は「救った」です。

2022/4/17 イースター礼拝 マルコ福音書16:1~8 墓石が動いて

 ・墓石が動いて
「安息日が終わったので」マグダラのマリヤたちは、イエスの体に香油を塗るために、墓に向かいました。いわば過去のイエスの追憶に向かったのです。彼女たちは、大きな墓石をどのようにして動かしたらよいのかと心配を抱えていましたが、しかし墓に着くと大きな墓石がすでに転がされていました。

・「あの方はよみがえられました」
 彼女たちは、墓に入ったところ、イエスの体はなく「真っ白な長い服をまとった青年が右側にすわっているのが見え」ました。その青年(御使い)は、空の墓の意味について次のように語ります。
「あの方はよみがえられました。ここには おられません。」
 空の墓について、色々な人々が様々な解釈をします。しかし、この言葉は神の言葉であり、神の解釈であり、どのような人間の解釈よりも真実です。

・ガリラヤへ
 さらに御使いは「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。…そこでお会いできます。」と告げます。ガリラヤは弟子たちの故郷で、イエスとの思い出の場所です。しかし御使いが示す「ガリラヤ」は新しいガリラヤであり、未来における復活のイエスと出会いを意味します。
 この後、み言葉に従って弟子たちと女性たちは、ガリラヤに向かい、そこで約束の通りに、復活のイエスに出会い、礼拝します。そこでも主イエスはみ言葉を告げて、弟子たちの心を未来に向けています。

2022/4/10 ルカ福音書18:31~34 「人の子」のミステリー

 ・エルサレムに向かって
「エルサレムに向かって…すべてのことが実現される…。」主イエスは、弟子たちをそばに呼んで、エルサレムで実現する「人の子」の出来事について伝えます。 エルサレムはダビデによって建てられた町でアブラハム契約、ダビデ契約による救いの実現する場所として預言者たちが一様に預言している場所です。

・「人の子」の受難と復活
「人の子は…引き渡され…殺します。」ここで「人の子」とあるのは、キリストのことです。しかし、主イエスは栄光のキリスト観と区別するために、あえて「人の子」という称号を用いています。人々の考えとは異なり、「人の子」は敗北者のようにして異邦人に引き渡されて、虐待されて殺されます。
「しかし、人の子は三日目によみがえり」とあります。人の子は砕かれ、死んだ後に、神の全能の力によって復活し、神のキリストであることが明らかにされるのです。

・「人の子」のミステリー
「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。…このことばは隠され…」とあります。弟子たちは、世的キリスト像ばかり求め、体質的に俗悪であったからです。
 しかし彼らが「人の子」のミステリーが顕にされるときがやがて来ます。それは「人の子」が、預言どおりに十字架上で死んで復活した後です。さらに彼ら自身の世的キリスト像と肉的人生観が打ち砕かれたときです。そのときに、神は彼らの目の覆いを取って栄光のキリストを示されるのです。

2022/4/3 ルカ福音書18:28~30

・ペテロの言葉
「私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」。主イエスが富める役人に語った言葉を聞いて、ペテロは、自分たちが家を捨てて主イエスに従っていることをアピールしています。彼らは赤貧の漁師たちだったので、それが比較的容易だったのです。後に富める者たち、高位の者たちも弟子集団に加わりますが、彼らの場合も「自分の家を捨てて」は弟子の条件としました。

・神の国の法則…捨てる
 ペテロの言葉に対して主イエスはさらに「捨てる」ことの大切さについて畳み掛けて語られます。
「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者…」と財産と家だけではなく、身近な人間関係にもメスを入れています。実際に誰もが、家族などとの身近な人間関係を心の支えとし、生きがいとしています。しかし地上の一切の関係よりも神の国がより優れた価値として、優先されることが大切なのです。

・神の国の法則…受ける
「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを…」。地上のものを「捨てる」ことによって、神の国の祝福がもたらされるという約束です。それは地上の祝福にも及び、かえって捨てたものの「幾倍かを受け」るのです。さらに後の世の永遠のいのちの獲得も約束されています。
 世に断捨離ということが言われますが、何よりも神の国中心に一切の断捨離をし、それでもってより多くの祝福を獲得いたしましょう。
 

2022/3/27 ルカ福音書18:18~27 ある金持ちの役人

・ある金持ちの役人
 「ある役人」が主イエスのもとにきて「永遠のいのち」獲得の手段について、質問しています。「役人」とは、ユダヤ議会の一員、あるいは指導者の一員のことです。彼はイエスのもとに来て、イエスのような尊い存在となり、それでもって永遠のいのちを獲得できると考えいました。しかし、それは彼の思い上がりであり、浅はかな神観に基づく願いでした。

・1つ欠け、すべての欠け
 主イエスは役人の浅はかな考えを指摘しています。「尊い」とはただ神だけで、人間に使うべきではないのです。神と人間との間には永遠の乖離があります。
 さらにまた彼は律法を「守っております」と主イエスに対して返答していますが、それも思い上がりであり、表面的には守っているように錯覚していても、その本質からは程遠かったのです。つまり一つの欠けは、全体の欠けなのです。役人は「持ち物を全部売り払い…」の言葉を聞くと「非常に悲しんだ」とあります。

・ラクダと針の穴
 「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしい」とありますが、たしかに人間的な善行と蓄財によっては神の国に入ることも、永遠の生命を獲得することもできないのです。ただ必要なことは、イエスを神の子キリストと心から信じて、一切を神に差し出すことだけです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

2022/3/20 ルカ福音書18:15~17 子どもと神の国

・子どもたちが
「人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た」時のことが記されています。弟子たちは、幼子たちはイエスには相応しくないとして、それを妨げようとしました。彼らは、子どもたちは無力で、価値がなく、主イエスの宣教の妨げになると考えたからでした。 その弟子たちの考えと態度は、この世の中では一般的なものです。

・子どもと神の国
 「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて」とあります。イエスの思いは、弟子たちの思いとは、いつの場合でも、異なっているようです。さらにこの機会を捉えて、「神の国は、このような者たちのものです」と真理を明らかにしています。神の国とはイエスの福音の中心テーマでしたが、弟子たちにはなかなか理解しにくい世界でした。しかし幼子たちの姿と態度は、まさしく神の国に招かれる者たちのあるべき姿と態度そのものだったのです。

・子どものように神の国を
 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
「子どものように」とは、自らの無力さの自覚、全面的に相手を信頼する心と態度です。神がイエスを通して無償で神の国を提供しておられます。その神の国に入る者たちの資格は、何かの能力や功績を差し出すのではなく、ただ自分の無力さを覚えて、信頼して受け入れることです。
 

2022/3/13 ルカ福音書18:9~14 自分を高くする者は

 ・自己義認の誤り…パリサイ人
 主イエスは「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」の誤りを示すために例話を語ります。その例話で語られるのは「ひとりのパリサイ人」です。彼は宮に登って祈るのですが、隣の取税人を見下し、自分の義を神の前に主張しています。「この取税人のようではない…私は週に二度断食し…十分の一をささげております」と。

・ある取税人
 「ところが、取税人は遠く離れて立ち…自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」とあります。取税人とは、ローマ帝国のもとでユダヤ人から税を取り立てる人々でした。彼らは律法を知らずアウトロー、罪人として、人々に蔑視されていました。そこで彼は神の前に相応しくない罪人であると自己認識をして、ただ神にあわれみを求めています。

・自分を高くする者 低くする者
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」と、主イエスの言葉は、いつでも人の思いと異なっています。神の御前ではいつでも「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。
 この例話は単に、パリサイ人のことを語っているだけではなく、キリストの弟子たちに対する警告として語られています。私たちも人との比較で自己義認する体質があるので、注意しなければなりません。

2022/3/06 ルカ福音書18:1~8 失望せずに祈る

 ・失望せずに祈る
 主イエスは弟子たちの基本姿勢として「いつでも祈るべきであり」と教えています。祈りは創世記以来、堕落した人間が神との接点をもつ唯一の手段でした。また信仰者たちが具体的に神の臨在と恵みを信じて生活する姿です。また「失望してはならない」とありますが、失望感に打ち勝って祈り続けることで、信仰が純化され、実際に神が、祈りにこたえてくださるからです。

・尊大な裁判官とやもめ
 主イエスは絶えず祈ることの大切さを悟らせるために尊大な裁判官とやもめの話をします。その裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」だとしても、やもめが繰り返し訴え続けるなら、根負けして訴えを取り上げるというのです。絶え間ない訴えには、だれでも腰を上げることになるのです。

・まして神は
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために…」とあります。 確かに旧約聖書以来、神の民は困難に直面してきました。詩篇にはその時の切なる祈りが記録されています。そして神は、たしかに選民の祈りのとおりに救い主を遣わしてくださいました。それは現在も、未来も、全く同じです。  
 私たちも色々な困難に直面していますが、そのときこそ失望せずに祈ることが大切です。神は速やかに祈りに答えてくださり、またキリストの再臨で、さらに大きな救いを与えてくださいます。

2022/2/27 ルカ17:22~37 人の子の日に

・人の子の日
 主イエスは「人の子の日」がどのようにして到来するかについて、弟子たちに語っています。「人の子の日」とはキリスト再臨の時という意味です。
 再臨までにいろいろな偽キリストが出現しますが、それに惑わされないよう注意します。さらに「人の子」は「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように」到来すると預言しています。

・ノアの日、ロトの日
 その時は「ノアの日に」あるいは「ロトの時代に」に起こったことと同様です。「人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て」とあり、「…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが…火と硫黄が天から降って」すべての人を滅ぼしたのです。

・ 人の子の日に
 そこで主イエスは「ロトの妻を思い出しなさい」と心の備えを促します。ロトの妻は御使いの忠告にもかかわらず「うしろを振り返った」ために裁かれて塩の柱になりました。そのように「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保つ」のです。
 私たちの時代も「食べたり、飲んだり…売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」している時代です。しかし、私たちは日常の営みの中でも、聖書の歴史を貫かれてきた真理を覚え、未来に対しての正しい展望を持つべきです。つまり世の者は滅び、ただキリストにある者だけが生命を得て残されるということです。
 

2022/2/20 ルカ福音書17:11~19 引き返したサマリヤ人

・十人のらい病人
 主イエスがエルサレムに向かう途中の出来事です。十人のらい病人が遠く離れたところから、イエスにあわれみを求めました。そこで主イエスは求めを聞き入れて「祭司に見せなさい」と語りました。
 らい病人たちは「行く途中でいやされた」とありますが、たしかに主イエスの言葉はらい病をも癒やし、きよめる力があることが分かります。

・引き返したサマリヤ人
 「そのうちのひとりは…引き返して来て」とあります。彼はまず、感謝すべきは癒やし主であるイエスと気づいたのです。さらに「イエスの足もとにひれ伏して感謝し」とあるのは、彼がイエスが神の子キリストと信じて、礼拝している姿です。
 「彼はサマリヤ人…」とあります。彼は本来ならユダヤの宗教から遠く離れていた人物でした。それゆえにかえってイエスが神の子キリストという真実に霊的に気づくことができたのです。それによって彼は単にらい病の聖めだけではなく、罪からのきよめを獲得しました。

・真の礼拝者
 「…九人はどこに」と主イエスは悲しみと戸惑いを表しています。その九人とはユダヤ人たちで彼らは祭司のところに向かい、その後、ユダヤ社会に同化して、世的幸いを得たのです。しかしそれでは決して、霊的に罪の汚れからは救われないのです。ただ「神をあがめるため」イエス・キリストを通しての礼拝に引き返す者だけが、誰であれ新しい時代の真の礼拝者です。
 

2022/2/1 ルカ福音書17:5~10 信仰の業と謙遜

 ・信仰の業
 使徒たちが「信仰を増してください」と願ったときに、主イエスは「からし種ほどの信仰があったなら…桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになる」と語り、小さくとも純粋な信仰の大切さを説きました。そのような信仰を神は、喜ばれるからです。

・しもべの謙遜さ
 また主イエスは弟子たちの謙遜さの必要についても語られます。つまり、「しもべが野らから帰って来たとき」でも、しもべは主人の食事のために仕えるのが当然で、いつも謙遜に仕えることが要求されるということです。しもべはあくまでもしもべであって、全権は主人にのみあるということです。

・神の僕たちの謙遜
「あなたがたもそのとおりです」と、主イエスは神のしもべたちも同じように謙遜が必要であることを示します。実際に、神は創造者にして贖い主であり、私たちは、被造物であり贖われた者たちだからです。そして、私たちは神のしもべとして仕えることが出来ること自体が幸いなことだからです。もし、自分の功績や権利を主張することになれば、それは神の恵みからの逸脱となるのです。
 「私たちは役に立たないしも…なすべきことをしただけです」とは、いつの場合も、私たちにとって幸いな告白であり、信仰生活の基本姿勢です。

2022/2/6 ルカ福音書17:1~4 つまずきと赦し

 ・つまずき
 世において「つまずきが起こるのは避けられ」ません。しかしキリストにある兄弟に対して「つまずきを起こさせる者は、忌まわしいもの」と厳しく戒められています。特に「小さい者たち」をつまずかせる者は「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」と、特に厳しく戒めています。教会の交わりのメンバーは誰であれ、キリストによって贖われた「高価で尊い」存在なのです。

・罪の赦し
 「兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい」とあります。世は罪に満ちているので、キリスト者であっても罪に陥ることがあります。その際に、見てみぬふりをするのではなく「戒める」という態度が真実な愛だということです。それによって「悔い改めた」なら、それによって兄弟はキリストの贖いを体験して、回復する機会となるからです。
 また「一日に七度…赦してやりなさい」とは徹底した赦しの姿勢を示しています。そのようにして罪による被害者も教会も「赦し」という態度を通して、具体的な形で自分が受けたキリストの赦しを証しします。

・神の教会
 使徒20:28に「神(キリスト)がご自身の血をもって買い取られた神の教会」とあります。私たちの教会は単なる世のサークルとは異なり、神の愛と生命が宿る交わりです。そこで、私たちは罪に対しては厳しく、赦しの愛に関しては徹底して、教会の交わりを形成していくように召されているのです。

2022/1/30 ルカ福音書16:19~31 金持ちと貧乏人ラザロ

 ・金持ちと貧乏人ラザロ
 続けて、主イエスはこの世の富の用い方について例えを通して教えています。「ある金持ち」は自分だけのために贅沢な暮らしをしていました。それに対して「貧乏人ラザロ」は全身おできで、金持ちの門前に寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいと切望していました。

・死と逆転
 やがて貧乏人は死んで天国のアブラハムの懐に連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのですが、気がつくとハデスに下って苦しんでいました。死によって、二人の状態は逆転していたのです。金持ちは苦しみの中から、天国のアブラハムに叫び、ラザロを遣わして乾ききった舌に少しの水を与えるようにと願います。しかし、アブラハムは答えて互いの間には「大きな淵」があって行き来できないことを告げます。生前の行いが一切を決定していたのです。

・聖書
 そこで金持ちは、自分の兄弟たちのためにラザロを送ってくれるように願いますが、アブラハムはそれを否定して断言します。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と。
 私たち人間は、罪人で、心底、自己中心と世俗に染まっています。その罪の泥沼から逃れて抜け出るためには、ただ聖書とそこに啓示されたキリスト以外には、救いの手段はないのです。

2022/1/23  ルカ福音書16:1~13  不正な管理人の話

 ・不正な管理者の話
 主イエスは、主人によって解雇を言い渡された不正な管理者の話をしています。彼は次の就職口を得るために色々と考えて、よい知恵が浮かびます。「主人の債務者たちをひとりひとり呼んで」債務減額の証文を新たに作らせて恩を売り、その債務者たちの家を、次の就職口にと画策したのです。そのことは、別に、主人の損失ではなかったので、主人は、管理人の抜け目なさほめたというのです。

・不正の富で友を獲得する
 そこで主イエスは「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と語ります。「不正の富」とは地上の富ということで、それ自体はマモンで、偶像的な存在になります。しかしそれを霊的な手段のために用いるときに、もはやマモンではなるということです。むしろ霊的に有益なものとなり、「永遠の住まい」の保証となることを示しています。

・不正の富と「まことの富」
 また「不正の富に忠実」によって「まことの富を任せる」られるとありますが、「まことの富」とは「アーメン」で永遠の富を意味します。確かに、それは信仰によって獲得するのですが、その信仰を地上の生活の中でも具体的に働かせることの重要さについて語られているのです。

2022/1/16 ルカ福音書15:25~32 もうひとりの放蕩息子

 ・兄息子
 たとえの後半は放蕩息子の兄に焦点が当てられています。彼は弟とは異なり、父の家に留まり、父の戒めに従い、かつ父に仕えて仕事を忠実にこなしていました。弟が帰ってきたときも、彼は畑で農作業をしていました。しかしこの日は、帰ってきて家に近づくと弟の帰還を喜ぶ音楽と踊りの音が聞こえたとあります。

・もうひとりの放蕩息子
 彼は事の次第を聞くと「おこって、家にはいろうともしなかった」とあります。彼は父のために戒めを守り真面目に働いているのに何の報いもない。それに対して放蕩息子の弟が帰ってきたときに、宴会をして大喜びをするのは、不公平であるというのです。
・父の愛、神の愛
 父は兄に対して父の裁断に何の不公平がないことを説明します。また表面的な義ではなく、さらに重要な親の愛の観点から、父親が弟息子の帰還を「楽しんで喜ぶのは当然」と語っています。また「おまえの弟」と表現して、兄息子もまた、父とともに弟の帰還を喜ぶべきであることを諭します。
 このたとえは、単にパリサイ人らの態度を非難して語られているだけではありません。さらには、私たちキリスト者同志の交わりのあり方を示しています。私たちも自分の義によって兄弟に不満を感じたり、怒ったりするものです。しかし人間的義よりも神の愛が優先されるべきで、私たちもそれに習うことが、要請されているのです。

2022/1/9 ルカ福音書15:11~24 放蕩息子のたとえ

 ・放蕩息子のたとえ
 主イエスは悔い改めの大切さを放蕩息子の例えを通して語っております。ある人に2人の息子がいて、弟息子が父の財産を受け取るやいなや遠い国に旅立ちます。そこで放蕩三昧によりお金を使い果たして、食べるのにも困るほどのどん底状態に陥ります。

・悔い改め
 このどん底状態の中で、弟息子は「我に返り」ます。それは自分がどのような状態でも、豊かなる父との関係にあることに気づくということでした。「立って、父のところに」行って、悔い改める決意をします。それは自分の罪を認め、心からの方向転換を明確にすることです。心の転換はいつの場合でも、全人と人生をも転換させます。
・父の愛
 息子が自分の父のもとに向かった時「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」とあります。父の愛の歩み寄りは、息子の帰還に先んじています。そこに父の愛の大きさが現されています。父は、彼を息子として迎え入れ、最高のもてなしと喜びで祝ったのです。ここに悔い改めて帰還するものに対する神の姿がが見事に描かれています。
 私たちは世という遠い国にいる者たちで、何らかの放蕩息子的存在です。新年のはじめ、まず心からの悔い改めによって、父なる神のもとに立ち返る姿勢を明確にしたいです。そして父の愛と祝福に満たされて、一年の初めの一歩としましょう。

2022/1/2 ヘブル4:14~16 恵みの御座に

 ・偉大な大祭司
 新年、初詣で神社仏閣を尋ねる人が大ぜいおりますが、私たちにはイエスが共におられることは心強いことです。彼は、何よりも「もろもろの天を通られた 偉大な大祭司」であると明示されています。どのような霊的権威や力よりも優れた方であり、私たちのために、神との仲介者となってくださる方ということです。

・私たちの弱さに同情
 「弱さ」は地上に生きる人間の現実の有様です。力の弱さ、心の弱さ、病気などの肉体の弱さ、罪に対する弱さなどです。その弱さ故に、私たちは苦しみ悩むのです。しかし「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」とあるこも心強いことです。つまり、私たちの弱さが接点となり、彼のうちに同情が起こるからです。

・ 恵みの御座に
 「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。「大胆に」とは、心から信じてということです。「恵みの御座」とは、キリストおられる天の御座ですが、私たちは霊的に、そこに招かれているのです。そこではいつでも、さながら福音書の世界のとおりに、イエスによる恵みの注ぎがあるのです。その恵みは、心の慰めとともに、新年の具体的な導きと歩む力となります。

2021/12/26 詩篇18:25~34 神、その道は完全

 ・全き者には、全き神
「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ…」
 私たちが、神が導いてくださった一年を振り返るにあたって大切なことは、神に対する誠実(恵み深さ)と全き姿勢です。またきよい信仰の目です。ちょうど鏡のように、神に対する全く清い姿勢を持つときに神は正しく見え、曲がった姿勢のときに、神はネジ曲がって見えるからです。

・神、その道は完全
「神、その道は完全。主のみ言葉は純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
 ダビデは、彼の人生を振り返り、あらためて、神の素晴らしさを全面的に告白しています。神が導かれる道は完全で、欠けがなく誤り導くことがないということ。主なる神のみことばは、ちょうど純金のように不純なものが混在しておらず信頼できるということ。そして、主なる神は身を避ける者にとって完全な盾であるということです。

・この神こそ 私に力を
 ダビデは過去を振り返って、神についての確信を強め、さらに未来に対する展望をいだいています。つまり未来についても、神は「私の道を完全にされる」と。それだけではなく自分自身が神によって強められて歩むことも告白しています。
 私たちも一年を振り返って全き神を告白し、新年に向かって「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる」と信じましょう。

2021/12/19 マタイ福音書2:1~12 博士たちの礼拝

 ・東方の博士たち
  ヘロデ王の時代に東方の博士たちがエルサレムにやってきたことが記されています。この博士たちは、マゴス、マギなどと呼ばれた学者たちで、占星術と古今東西の学問に通じた人々でした。しかし彼はそれらに真理はない事を悟り、ユダヤの預言を探り求めました。そのときに、ユダヤ人の王キリストの誕生を知らせる星を見つけたのです。聖霊は真摯に求道する者たちにあらゆる方法を通して導きを与えるのです。

・「ユダヤの地、ベツレヘム」
 博士たちの来訪に、ヘロデ王と人々は「恐れ惑った」とあります。彼らは虚しい栄光に甘んじて、真実の変革を嫌っていたのです。
 しかしヘロデ王の元に集まった祭司長らは旧約預言からキリスト誕生は「ユダの地、ベツレヘム 」と特定します。そのみ言葉に従った時、博士たちは例の星によって「幼子」の元に導かれています。

・博士たちの礼拝
 博士たちは「母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ」とあります。彼らは富と地位を持つ誇り高き人々でしたが、幼子をキリストと信じて礼拝したのです。
 「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。礼拝は心と態度だけではなく、捧げものを通して真実となります。礼拝(worship)とは「価値がある(worth) 状態(ship)と辞書にあります。彼らの礼拝こそキリストに捧げるにふさわしいworshipです。

2021/12/12 マタイ福音書1:1,1825 処女降誕とインマヌエル

 ・キリストの系図
 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図 。」
 マタイ福音書では、キリストは神の恵みの契約のとおりに到来したことを系図を通して示します。しかも系図の中にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻というふうに異邦人また曰くあリの女性たちの名前が含まれています。これらによって、神の恵みは、人間の思いや常識を超えた形で実現したことを明らかにしています。

・処女降誕
 「母マリヤは…聖霊によって身重になった」とあります。聖霊は三位一体の第三格の神ご自身です。マリヤに起こったことは、旧約聖書が待望する救い主キリストの懐胎でした。しかし夫ヨセフは不可解に思ってつまずき、彼女との離縁を心で決めました。

・インマヌエル
 しかしなおヨセフが「思い巡らしていた」とあります。マリヤに起こったことを恵みと全能の神の御前で深く考えたのです。そのときに「主の使いが夢に現われて」真実を告げられ、結局、彼はマリヤを娶ることになったのです。
 「その名はインマヌエル(With-us-God)」とあります。名は体を表すと言われる通り、彼はマリヤとともにインマヌエルを受け入れる事となり、そればかりではなく民すべてのために救いの扉を開く役割を果たしたのです。

2021/12/05 ルカ福音書15:1~10 捜し求める神

・捜し求める神
 主イエスが取税人や罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにしているのを見て、パリサイ人らが非難しました。そこで主イエスは、2つのたとえ話を通して、ご自分の使命とは何か、またご自分を遣わした神の姿は何かを示しています。それは失われた罪人を捜し求める神の姿でした。

・一匹を捜す羊飼いのたとえ
 最初のたとえは迷子になった羊を捜す羊飼いのたとえです。彼は99匹の羊を野原に残してでも「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩」くという話です。羊飼いとしての愛の本性は、失われた羊に向けられ、どこまでも捜し歩くということです。「見つけたら、大喜びで…」とありますが、いつの場合でも喜びは、真実な愛の果実です。

・銀貨を捜す女の人のたとえ
 もう一つは、銀貨を失った女の人のたとえです。彼女はなくした一枚のために「見つけるまで念入りに捜」すというのです。9枚残っていても失われた1枚を貴重とし、それに執着するのです。そしてこの場合も「見つけたら」自分だけにとどまらず近所の人々まで呼んで喜びを分かちあうのです。

・罪人の悔い改めを求める神
 以上のたとえを通して、神は「ひとりの罪人の悔い改め」を切に求める方であることが示されています。それが神の愛の本性であり、そこにいつの場合でも神の喜びがあり、また「神の御使いたちに喜びがわき起こる」のです。
 

2021/11/28 ルカ福音書14:34~35 キリスト者の塩気

 ・塩は良いもの
「塩は良いもの」とあります。確かに減塩が叫ばれる時代ですが、塩自体は人間にとって必要欠くべからざるもので、塩分によって筋肉と臓器のバランスがたもたれています。それで人間は塩の味覚がきわめて敏感で、すべての味覚の基本だということです。まさしく「塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか」とある通りです。
 
・塩気をなくしたら
「…土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられて」とあります。
 当時のユダヤでは塩とは、死海周辺から産出される岩塩で、かなりの不純物が混じったものでした。それで塩分が融解して残った塩は、もやは形だけは塩でも、塩気がなくなっている場合がありました。その時、それは畑の土にも、肥やしにもならない役立たずとして「外に」捨てられるのです。

・キリスト者の塩気
 以上,「塩」は極端な両面を持っているのですが、それは世にあるキリスト者の場合も同じだということです。「塩気」のあるキリスト者は神の目の前でも、世においても「良いもの」です。しかし「塩気」を失った者は、まったく役に立たない者となっているということです。
 具体的にキリスト者の「塩気」とは、主イエスに第一に従う心です。その信仰心から「神への恐れはきよく」とあるように聖さが生まれます。また真実な「信仰と希望と愛」が養われます。私たちは、神の前で自分を顧みて、信仰心を正し「塩気」を保つことが肝要です。

2021/11/21 ルカ福音書14:25~33 弟子の条件

 ・弟子の条件
 主イエスはご自分についてくる群衆に対して、弟子の条件とは何かについて、次のように語っています。
「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
 地上に生きる人間にとって「自分のいのち」は言うまでもなく、家族と親族は何よりも愛すべき存在です。それを「憎むように」ということは、世の常識を覆す革命的言葉です。

・自分の十字架を負って
 さらに「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と畳み掛けています。「十字架」とは、地上の一切を否定する象徴です。地上のものに未練を残していては、イエスの弟子となれないと明言しているのです。
 「塔を築こうとするとき」「どんな王でも…戦いを交えようとするとき」と2つの例を用いて、物ごとを成功させたり、勝利するときに、基本となる合理的判断が必要であることを示しています。それがイエスの弟子となる場合は、「自分のいのちを憎む」「十字架を負う」ということだということです。

・神中心の生活転換
 これらの命令は、ショック療法的言葉で、私たちが地上の生命に執着するよりも、神を第一に愛すべきをことを具体的に示しているのです。その基礎があって初めて、地上のいのちも人間関係が純化され、健全で幸いとなるからです。

2021/11/14 ルカ福音書14:15~24 神の国で食事する人

・神の国で食事する人
 主イエスは盛大な宴会にたとえて義とされて、神の国で食事する人とは、どのような人であるかについて語っています。
 「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いていた」。しかし「宴会の時刻になったのでしもべ」を遣わしました。ここで「ある人」とは神のことで、神の国の救いと祝福の大宴会を開くことを意味しています。

・断る招待者たち
「ところが、みな同じように断わり始めた」とあります。皆が皆、それぞれの世的な理由で、宴会への招待を断ったというのです。それは旧約において神の救いに招待されていたユダヤ人たちが、主イエスを通して提供された福音を拒絶したことを暗示します。彼らは世を愛するあまりに躓いたのです。

・「無理にでも」…残りの席のため
 そこで主人は「大通りや路地に出て行って、貧しい人…」を連れてくるように命じています。彼らは世的な楽しみもないために、素直に招待に応じるのです。さらに残った席があったので「街道や垣根のところに出かけて行って…無理にでも人々を連れて来なさい」と命じています。
 用意されている「席」とは神のキリストの血によって買い取られた救いの席です。それは決してないがしろにしてはならず「無理にでも(どうしても)」満たされなければならないのです。私たちはすでに招かれているものです。この招待を無駄にしないように心して気をつけましょう。(ヘブル10:25)
 

2021/11/07 ルカ福音書14:12~14  祝宴の招待者

 ・祝宴の招待者
 主イエスは祝宴の招待者について「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません」と語っています。それは、身近な人々との交わりは、ギブ&テイクの関係で、本質は自己愛に基づく地上の狭い人間関係に過ぎないからで、神の国の愛の関係ではないことを明らかにしています。

・招待者は貧しい人…
「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい」とあります。「貧しい者…」は社会的立場も経済力もなく、ユダヤ社会では、交わりや集団からは除外される傾向がありました。また一般の人々は、彼を食卓に招いても、なんの益にもならないと考えていました。しかし主イエスは、そのような人々こそ祝宴に招くのが「幸い」と語っております。それは彼が「お返しできない」分、神に対する純粋な愛が現れるからであり、それゆえに「義人の復活のとき」神が報いてくださるからです。

・神の国の招待者
 主イエスもまた、神の国に招いているのは、世の力ある者ではなく「貧しい者…」です。私たち自身も、貧しい時に、キリストによって見いだされて、招かれているのです。そこで私たち自身も、キリストから受けたとおりに、「幸い」な愛、神の国にふさわしい愛を実践するようにいたしましょう。

2021/10/31 ルカ福音書14:7~11  自分を高くする者 低くする者

 ・披露宴のたとえ
 食事に「招かれた人々が上座を選んで」いました。それは、パリサイ人らにとって、上座は、いわば栄光の座で、自分の宗教的社会的地位を築く機会であると同時に、自分の虚栄心を満足させる場となっていたからです。その事に気づいた主イエスは、婚礼の披露宴の例えを語り、それによって神の国でのありかたを示しております。

・上座ではなく 末席に
「上座にすわってはいけません」とあります。それは後で「あなたよりも身分の高い人」が来た時に、主催者の判断で末席に移され「恥をかく」ことになるからです。そこで「末席に着きなさい」と勧めています。それは、自分を一番小さく低い者と考えて、それにふさわしい席に着きなさいということです。その場合も主催者は、その人のことを覚えて、必ずや上席に招かれて面目躍如となるということです。

・高くする者 低くする者
 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。この原則は、神の国では徹底しています。そこでは神が主権者で、虚栄や高慢で上座に着こうとする者は、確実に恥を受け、反対に自分の小ささを認識して、へりくだる者は、神によって栄光を受けるということです。このことは、主イエスご自身が身を持って示されたことです。彼は低くなったがゆえに、神によって何よりも高められました。
 

2021/10/24 ルカ福音書14:1~6 水腫の人の癒やし

・安息日/パリサイ人の家
 ある安息日に、主イエスがパリサイ人の家で食事に招かれたときのことです。パリサイ人らは、イエスの一挙手一投足に注目していたことが記されています。彼らは「イエスの真正面に、水腫をわずらっている人」をあえて座らせて、癒やしの瞬間をとらえて、非難しようとしていたのです。 彼らは律法を、ただ自己義認のための手段として、ただ規則だらけの束縛の世界を作っていました。

・水腫の人の癒やし
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」 主イエスは彼らの魂胆を察して機先を制して問いかけています。彼らが沈黙していることを見て「イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった」とあります。イエスの癒やしは肉体だけではなく全人格的であり、水腫の人は癒やされて、罪と律法の束縛から神の救いと愛の世界に復帰させたのです。そして主イエスは、癒やした理由について、例外規定を引用して、安息日の基本精神は「愛とあわれみ」であることを示しています。

・信仰と愛による転換
 人間は罪人であるため、どのような律法もただ人間疎外の規則にしてしまうだけです。ただ主イエスを受け入れることで、その誤りは克服され、さらに優れた行動基準を獲得します。「キリスト・イエスにあっては…愛によって働く信仰だけが大事」ガラ5:6とあります。私たちもキリスト信仰とともに、愛を中心とした世界をつくりましょう。
 

2021/10/17 ルカ13:31~35  ああ エルサレム

・きょうもあすも
 パリサイ人らが「ヘロデがあなたを殺そうと思っています」と恐怖心を吹き込んで、み働きを挫こうとしました。それに対して主イエスは「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」と答えます。そこには神によって派遣された者の徹底した献身姿勢が見られます。

・神の都エルサレム
 「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」とあります。エルサレムはダビデ契約により神殿が据えられ、神の都とされた町であり、旧約の民の象徴とされた所でした。それで神はこの町を愛し、預言者たちを遣わして、神のことばを告げた町でした。また最後の「預言者」イエスもまた、エルサレムに死を覚悟して向かっていました。それもすべて神の愛のゆえでした。

・ああエルサレム
「ああ、エルサレム、エルサレム」と主イエスは嘆きのことばを発しています。神が愛ゆえに預言者たちを、さらに神の子キリストを遣わしても殺してしまうことを嘆き、またそれ故に滅びを招くことになることを嘆いています。実際に、その予見のとおりとなり、現代にいたるまでエルサレムは荒廃しています。
 私たちは新しく招かれた新約の民ですが、旧約の民の過ちを同じように犯すことがないようにしたいものです。そのためには過去から教訓を得て、絶えず神の愛の大きさと、自らの罪の深さを知らされること、それによって悔い改めと信仰を深めていくことです。
 

2021/10/10 ルカ福音書13:22~30 狭い門から

 ・狭い門から
「努力して狭い門から入りなさい」
 主イエスは質問に答えて救われるための心がけについて語っています。「努力して」とは、運動選手たちが栄冠を得るために必死に努力する有様を示しています。
 「狭い門」とは見つけにくい門、見すぼらしい門、入るのに困難な門ということです。そこで多く者は見出すことがなく、見出しても門前で疑い、躊躇して、入らずじまいの門です。しかしそれでも神の国に入るためには「狭い門から入る」ことが必要です。

・狭い門とはイエス・キリスト
 主イエスは「わたしは…門」ヨハ10:7と語っています。彼のみが神の国に至るための唯一の門です。しかしながら、世の人々は無視し、捨て去る門、あるいは入ろうと思いながらも躊躇する門です。
 ただ神に目が開かれた者たちのみが、それを見出し、永遠の救いに至る門と知らされました。それゆえ彼らは「努力して狭い門から入った」のです。ピリピ3:13に「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」とあるとおりです。

・ 門が閉ざされる時
「主人が…戸をしめてしまって」とあります。門はいつまでも開かれたままでなく、時が来ると完全に閉ざされます。そのときに、いくら戸を叩いても入ることはできません。
 私たちはキリストによって招かれている者たちです。それが「狭い門」だからといって躊躇せず「ひたむきに」信仰を持って進んで行きましょう。

2021/10/3 ルカ福音書13:18~21 からし種とパン種

・からし種のたとえ
 主イエスは神の国を2つのたとえを用いて弟子たちに示しています。それは当時の人々が考えていたように突然訪れるものではなく、漸次拡大するものとして示されています。  
 その1つは「それは、からし種のようなもの」とあります。からし種は小さな種ですが「それを取って庭に蒔く」ことで、その内に宿されている生命が働き「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作る」程になるということです。ただの野菜の次元を超えて「木」になり、庭の外の「空の鳥」にとっても憩いと養いの場となるということです。

・パン種のたとえ
 次に神の国は「パン種のようなもの」とたとえています。パン種もまた小さいものですが「女が…とって…粉に混ぜたところ、全体がふくれました」とあります。この場合も、はじめは何の変化も見られないのですが、時間がたつに従い、驚くほどの大きな塊になるのです。
 
・神の国と福音  
 「からし種」「パン種」でたとえられているのは、主イエスの福音と神の国の有様です。主イエスの福音もまた、世の中では小さく愚かな教えとされています。しかし、それを心から信じる人々、集団のなかでは、神の生命が働き、人間の思いを超えた次元にまで拡大していくのです。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」Ⅰテサ2:13と。また「福音は…それをほんとうに理解したとき以来…世界中で、実を結び広がり続け」コロ1:6とあるとおりです。  
 

2021/9/26 召天者記念礼拝 イザヤ26:19 あなたの露は 光の露

・「あなたの死人は生き返り」
 「あなたの死人」とは主なる神の民のことで、地上で信仰を全うして、今は「死人」となっている人々のことです。死者は生きかえることなどないということは、地上の考え、常識です。しかし神によって復活の啓示があり、預言者自身も告白をしています。さらにまた、自分自身についても「私のなきがらはよみがえります」と告白します。

・「あなたの露は 光の露」
 「露」はエルサレム周辺では夏の日照りの中で作物などを生かす恵みそのものでした。そこで「あなたの露」とは、地上の悲惨の中で、信仰者にくだされる神の恵みを表します。「光」とは、神の臨在と生命を意味します。そこで「光の露」とは、神の臨在と命が宿る露ということで、信仰者たちが地上で受け取る神の恵みは、そのまま復活の生命であり、その約束であることを告白しています。実際に、草花に降りる朝露に、光が輝く光景は、そのような神秘を覚えます。

・「地は、死者の霊を生き返らせ」
 「地」とは、古代において死者を飲み込み閉ざす世界とされていました。しかし神の民は、恵みと復活の約束を受けている者たちであるゆえに、そこに閉ざしたままにすることはできず生命の世界に「投げ出す」ということです。ダイナミックな啓示であり、それに同調して預言者もダイナミックに告白しています。
 私たちもまた、死が一切を支配するような世界に生きていますが、日々、神の生命の露を受け取り、復活信仰を告白していきましょう。
 

2021/9/19 イザヤ46:3~4 あなたを背負う神

・「わたしに聞け」
 人が高齢になると新たな危機に直面します。仕事のリタイアー、肉体と記憶等の弱さ、そして将来の展望などについてです。そこで不安を覚え色々と考えるのです。
 しかし神ご自身が「わたしに聞け」と語りかけています。「あなた」の創造者かつ贖い主の語りかけですから、当然、神のことばに耳を傾けることが最善です。

・あなたを背負う神 
「胎内にいる時からになわれており…運ばれた者よ」とあります。人は母の胎内で誕生し、幼子として担われ、やがて大人として成長します。しかし、背後で「にない」「運んで」くださったのは、神ご自身であったという霊的事実を確認させています。
 私たちの場合、何も考えなければ、母が父が、また周囲のお陰、自分の力で成長してきたと思ってしまいます。しかしみ言葉を通して、あらためて神が「あなた」を 「にない」「運んでくださった」と認識することが大切です。

・白髪になっても
「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」とあります。「しらがになって」とは高齢となり、力がが衰えた時、様々な人間関係が希薄になる時、それゆえに将来について不安を抱く時のことです。しかし、絶対的な「わたし」である神は「あなた」をこれまでと同じように「背負う」と約束しておられます。それは神の大きな恵みによります。老年こそ神の恵みの深さを深く味わう時となるということです。
 

2021/9/12 ルカ福音書13:10~17 アブラハムの娘のため

・病の霊につかれた女の癒やし
 主イエスはある安息日に、会堂で18年間、病の霊につかれて腰が曲がった女を見かけて、御元に招き、み言葉により癒やしました。「女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた」とあります。主イエスの救いがあるところでは神の栄光もまた現れて、褒めたたえがあります。

・アブラハムの娘のため
「それを見た会堂管理者は」安息日に癒やしの業が行われたことに憤ったとあります。それに対して主イエスは、安息日に牛やロバの綱を解いて水を飲ませるのに、どうしてアブラハムの娘をサタンの束縛から解いてはならないのかと、彼らの偽善を指摘します。
 またサタンの束縛を解いた主イエスこそ、安息日を凌駕する安息の主、神の子キリストであることを示しています。

・信仰によるアブラハムの娘のため
 ガラテヤ3:7に「信仰による人々こそアブラハムの子孫」とあります。つまり、今は私たちキリスト者が、信仰による子孫とされて、神に選ばれ、愛された者とされているということです。それは私たちの生涯の中で、さらにキリストの栄光が現され、サタンの束縛が打ち砕かれるためです。また、そのことで神が絶えず、賛美されるためです。
 

2021/9/5 ルカ福音書13:6~9 いちじくの木のたとえ

 ・いちじくの木のたとえ
 「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」けれども、一向に実をならせる気配がないことを見て「切り倒してしまいなさい」と番人に命じています。これは旧約の民が神によってカナンの地に植えられたのにもかかわらず、その頑なさゆえに実をならすことがなかったことを示しています。

・裁きの猶予とキリスト
 それに対して番人は「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。…それでもだめなら、切り倒してください。」番人もまた、神のうちにある憐れみを示しています。神は旧約の民に対して恵みと忍耐を示し、さらに憐れみとチャンスをも与えて、最善をなしたのです。
 ところが彼らは、キリストという最後のチャンスをも無にして、結局は神によって断ち切られます。

・キリストの民と実
「倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」ローマ11:22
 私たちは神のいつくしみによって、新しい神の民として召されてキリストに結び付けられています。それはすべて神のために実を結ぶためです。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」エペソ5:9 とありますが、私たちも精一杯の実をならせるようにいたしましょう。

2021/8/29ルカ福音書13:1~5 悔い改めなければ

・「ガリラヤ人たち」の非業の死
 主イエスは「ガリラヤ人たち」の非業の死について聞いた時、人々の受け止め方について非難しています。人々は彼らの隠れた罪について噂し、それと比較して自分たちは、まだましで善人というような考えでいました。つまり、人々はそのゴシップをネタにして、自己義認と自己正当化していたのです。そのことはシロアムの塔の出来事の場合も、全く同様でした。

・悔い改めないなら
 まず「そうではない」と彼らの自己義認の考え方を否定し、かれらもまた同じように罪人であることを明確に示します。他の箇所にも「義人はいない。ひとりもいない」ローマ3:10とあるとおりです。さらに「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と、そのままの状態では滅ぶことを予告しております。この「滅び」とは単に肉体の死ではなく、永遠の滅びです。

・イエスと悔い改め
 そこで人間にとって「悔い改め」が極めて大切なことであることとしております。「悔い改め」とは、考えと思い、また行いの転換を意味するだけのものではありません。何よりも人間の中心の心の転換であり、全人の罪からの転換です。そして向かう先は、ただイエス・キリストご自身です。悔い改めにはいつの場合でも、彼に対する献身が伴います。
 

2021/8/22 ルカ福音書12:54~59 時を見分ける

・時を見分ける
 主イエスは群衆に対して、次のように語り非難しています。「地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」
 確かに世の人々は、気象の変化について関心を持って見分けるのですが、「この時代を見分け」ようとはしないものです。つまり、この時代が神の怒りの下にあり、世の終わりに直面しているということです。

・自ら進んで判断する 
 さらに「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか」とあります。人は誰かに、自分の罪を指摘されてもなかなか、それを認めようとしない存在です。そこでいつでも自分から自発的に罪を察知して悔い改め、神との和解をえる信仰姿勢が大切になります。

・悔い改めと和解の時
 最後に主イエスはたとえを通して、神の裁きを免れるために、悔い改めて和解することの大切さを示します。その和解の道とはイエス・キリストです。
 私たちは、さながらこの債務者で、神の怒りと裁きの下にある債務者また罪人です。そのことを認識し、自発的に心から悔い改めて、神が用意してくださっている和解を受け入れる姿勢が大切です。

 

 

2021/8/15 ルカ福音書12:49~53 火のバプテスマ

 ・火を投げ込むため
 主イエスはご自分が地上に来られた目的について「火を投げ込むため」と語ります。人々は主イエスについて平和の君という期待を持っていたのですが、それとは正反対のイメージです。
 主イエスが語る「火」とは、目に見えない聖霊の火です。罪との妥協で偽りの平和の世界は、聖霊の火によって燃やされなければならないのです。その「火」によって初めて、真実の平和が世に訪れるのです。

・イエスの火のバプテスマ
 「わたしには受けるバプテスマ」とあります。つまり世に火を投げ込む前に、ご自身が火のバプテスマによって燃やされ、苦しむということを預言しております。つまり神の怒りに焼き尽くされ、同時に肉の姿で罪を焼き尽くすということでした。

・私たちの火のバプテスマ
 「…むしろ、分裂」とあります。主イエスご自身が受けたバプテスマによって、今度は福音と言う形で聖霊の火が弟子たちに与えられます。それによって弟子たち自身と世との関係に火が投じられることになります。それが「分裂」です。
 私たちも福音のもとにありますが、その火は、私たちの内側と世との関わりの中で、罪と義、汚れと聖をことごとく分離させます。そこでは多少の痛みが伴いますが、しかしその「火」を通して平和が訪れることになるのです。

2021/8/8 ルカ福音書12:41~48 忠実な思慮深い管理人

・忠実な思慮深い管理人
 主イエスは忠実な思慮深い管理人のたとえを通して、教会のリーダーたちの信仰姿勢について語っています。「忠実な」とは、主人が不在の間も主人の思いと利益を優先して、家のしもべたちをよく管理し、特に恵み深い主人の思いに従って、しもべたちに「食事時には彼らに食べ物を与える」のです。主イエスの家である教会の場合、食べ物とは何より神の言葉です。

・主人が帰ってきたとき
 「主人が帰ってきたとき」、忠実で思慮深い管理人は、幸いと祝福を受け、それに対して、不忠実で愚かな管理人は厳しい裁きにあいます。ちょどそのように、主イエス再臨のときに、神の家でも同じことが起こります。神の家の管理人とは、使徒、伝道者、牧師、教師、また監督、長老、執事など、責任ある立場の者たちです。

・賜物と奉仕でも深い管理者
 最後に「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」とあります。ここで主イエス再臨のときに審判を受けるのは、賜物と責任を委ねられているすべてのキリスト者とされています。
 私たちは、それぞれ賜物を受け、何らかの責任を委ねられている者たちです。それらを忠実さと思慮深さを持って、十二分に用いていく必要があるのです。
 主イエスの再臨は確実にあるのです。その時を期待しながら、力を尽くし、思いを尽くして、精神を尽くして、神の家で、共に仕えていくようにいたしましょう。
 

2021/8/1 ルカ福音書12:35~40 再臨と待望

 ・再臨と待望
 主イエスは婚礼から帰る主人とそれを待つしもべたちにたとえて、ご自身の再臨と弟子たちの信仰姿勢について語っています。「腰に帯を締め、あかりをともして」とは仕える姿勢と心が覚醒した状態で主人を待つしもべたちの姿勢ですが、ちょうどそのように、弟子たちに対して、主イエスの再臨を待望するように警告しています。
 
・報いと幸い
 「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸い」とあります。「目をさましている…しもべ」とは、仕える姿勢と心が覚醒した状態を保つしもべたちのことです。彼らに対して、たとえの主人は大きな報いを与えています。ちょうどそのように、主イエスご自身も、忠実な弟子たちに対して大きな報いと恵みを与えることが示されています。
 
・用心していなさい
 最後に「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから」とあります。
 現代は、主イエスの再臨を信じる者が少ない時代です。世の人々は、全く馬鹿げたことのように考えています。またキリスト者の中でも、救いを心の中だけに矮小化し、再臨という歴史上におこる救いをリアルに受け止めない傾向があります。しかし、そのような信仰は空虚です。
 私たちは、このような時代だからこそ、「用心して」再臨待望の信仰を失ってはなりません。その信仰だけが、神の国で完成し、報いを受ける信仰でだからです。  

2021/7/25 ルカ福音書12:31~34  天に宝を積み上げる

 ・神の国を求めなさい
 主イエスは地上の事柄に対する執着ではなく、まず第一に「神の国を求めなさい」と語ります。神の国は神の恵みが支配する世界のことです。その国はすでに天から下って地上に突入しており、神は主イエスの弟子たちを喜んでそこに招かれておられます。その際に、必要なことは信じて「求め続ける」姿勢です。

・天に宝を積み上げる
 しかし神の国を求める信仰は、空虚なものではなく、具体的な生きた信仰として実践されていく必要があります。それが「持ち物を売って、施しをし…宝を天に積み上げる」ということです。「売って、施す」ということは、「私」にとって痛みを伴うことですが、その分、私のために天に宝が積み上がる結果となります。しかもその宝は朽ちない永遠の宝となって、神の目に留まる信仰の証となるのです。神もまた、その人を永遠の愛によって愛し、また生命を与えられます。

・宝のあるところに心
 「宝のあるところに、あなたがたの心もある」とあります。つまり地に宝がある時、その心は地上に属し、天に宝がある時、その心は天の属するということです。宝がどこにあるかによって、その人の本質が顕になるのです。
 かつて修道女マザー・テレサが「自分自身が痛む程に与えなさい」と語っていたということですが、彼女ほどの痛みではなくても、自分に与えられた信仰にしたがって「痛んで」天に宝を積み上げることは大切な信仰の実践です。

2021/7/18 ルカ福音書12:22~30 空の烏、野のゆりを見よ

 ・心配
 主イエスは「いのちのことで何を食べようか…何を着ようかと心配したりするのはやめなさい」と語っています。世に生きる限り、様々な生活の心配と煩いは避けることはできません。しかし、それが過度になる時に、囚われて目に見えない神の恵みから離れる危険があります。

・烏のことを考える
「烏のことを考えてみなさい」とあります。烏は不浄な鳥とされていますが、それでも「蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉も」ないのに繁栄しています。それは神の養いの中にあるからです。
 自然の中に現されている恵みを考えさせてから、次に「あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたもの」とあります。小から大の論理で類推させています。

・ゆりの花のことを考える
 次に野の「ゆりの花」について「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」と語ります。神の恵みと装いの中にあるものは、どのような人間の装いよりもすぐれていることを示しています。そしてここでも「ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」と小と大の論理、特別な恵みを洞察する霊的類推に招いています。
 私たちは圧倒的な異邦人の中にあり、同じように心配の虜になりがちです。そのような時に、自然の恵みに目を留め、次に神の遥かに大きな恵みに心を向けることが大切です。

2021/7/11 ルカ福音書12:13~21 愚かな金持ちのたとえ話

・どんな貪欲にも注意
 主イエスは遺産相続分配の訴えがあったことを契機に、弟子たちに対して「どんな貪欲にも注意」するように警告を与えています。それは主イエスがもたらした神の国も永遠のいのちも地上の財産によるものではなく、むしろそれらが害になる場合が多いからです。

・愚かな金持ちのたとえ話
 そこで主イエスは愚かな金持ちのたとえ話をします。彼はすでに財産があるのに、貪欲にとらわれて、さらる財産が自分のたましいの喜びと保証となるかのように錯覚したのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」とは、貪欲にとらわれた者の愚かな夢想です。
 ちょうどその夢想の頂点の時に神宣告は以下のとおり下ります。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」

・神の前に富まない者の悲惨
 金持ちは自分が知恵者で思慮深い人間であると考えていたのに対して、神は「愚か者」と宣告しています。この金持ちの愚かであるゆえんは、目先の財産にとらわれ、目に見えない神とその主権を見失ったところにあります。その結果、この世と後の世のいのちまでも、すべて失ったのです。最後に「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」とあります。
 

2021/7/4 ルカ福音書12:8~12 イエスを告白する

 ・イエスを告白する
 主イエスは「わたしを人の前で認める」ことの大切さを示しています。それは洗礼式のときだけではなく、生涯にわたることです。そして、地上の告白が、即、最後の審判に反映されるのです。「人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます」とあるとおりです。

・イエスを否認
 反対に、自分ではイエスの弟子との自覚があっても、イエスを人の前で否認した場合も、即、最後の審判に反映され、その人が否認されることになります。
 しかし何度かイエスを否認したとしても、心から放棄して聖霊を汚すのでない限り、悔い改めによって、立ち返ることが赦されます。
・聖霊による告白
 また弟子たちが、困難な中でも信仰告白をしようとする時に、「聖霊が教えてくださる」とあります。聖霊はイエスの霊、約束の霊で、前向きにイエスを告白しようとする弟子たちにともなうのです。その聖霊による教えと告白を通して、世に対して鮮明な証をなし、同時に弟子たちも成長することになります。

・信仰告白…「神のもとにいたる道」
 ナチスの時代に告白教会を設立したボンヘッファーはこの世は「通り過ぎるもの」ではなく「神のもとにいたる道」であると語っています。つまり私たちは困難があったとしても、明確な信仰告白をなすことで、御国に凱旋することができるということです。

2021/6/27 ルカ福音書12:4~7 人間ではなく 神を恐れる

 ・人間たちを恐れるな
 主イエスは弟子たちを「友」と呼び、主イエスの宣教の後継者、新しい民の形成者として、信仰生活の基本を示しています。その第1は、「人間たちを恐れてはいけません」です。実際に人間たちは「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない」存在だからです。また人間を恐れると罠にかかり、神に対する反逆と様々な罪の原因となります。

・神を恐れる
 「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」とあります。神のことですが、神は第1に地上の生殺与奪の権を持ち、さらに死後に第二の死、永遠の滅びであるゲヘナに投げ込む権も同時に持つ方であることを示しています。だから人間を恐れずに、神こそ恐れるべき方であることを教えています。

・憐れみと愛の神
 また雀の例を通して、神が憐れみと愛の存在者であることを示しています。「五羽の雀は二アサリオン」とは、雀一羽が、この世では極めて小さな存在であることを示しますが「…神の御前には忘れられてはいません」と。「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者」と語っています。
 私たちは人間を恐れて、信仰生活を台無しにしがちな存在です。そこで、私たちは主イエスの言葉を通して、霊の世界に目を開き、神を恐れ、また神のあわれみと愛の中に生きるという信仰の基本を徹底させていきましょう。